好々彦の神代文化考

神話と系譜と足跡を元に”古代人の生き様”を読み解き、新しい古代史の視点を提案する。きっとあなたの古代史観が変わる!                                                              

日本の国のなりたち  

(5) 大和国の成立は「神武東征」から始まる

(5)・1 日向の海人系豪族の東拓

 「神武東征」は古代史上初めて「海洋国家日本のあけぼの」としての国生みの真実が明らかになる。

 神話では、天祖「天照大御神」の神勅により、「天忍穂耳命」に見送られて天孫「瓊瓊杵命」が高天原から高千穂の峰に降臨し、そこで皇基(皇室の礎)を建て、子の「彦火火出見命」や孫の「鵜葦草葺不合命」や曾孫の「磐余彦命」など子孫代々が葦原中国を開拓したと云う。

 「鵜葦草葺不合命」の子「磐余彦命」(後の神武天皇)は海辺に現れた「塩土老翁」に「東に美しい土地があり、先に下見に行った者がいる」と知恵を授けられ、兄の「五瀬命」に相談し、東に「新天地」を求め大和を目指し日向の美々津を出航し、東拓の旅に出たのが「神武東征」の始まりであると云う。

 十六年の歳月を費やし、途中兄の死や様々な苦難の連続であったが、天命を受けて苦難を乗り越えて大和の地に入り、橿原で即位し「神倭磐余彦命」と称し、天下を治めたと云う。国生み神話の始まりである。

 国生み神話は、十代「崇神大王」の代に諸国を併合、統一するために創基されたもので、『諸氏が居留する諸国は全て「天照大御神」が創生した国であり、神裔が統治する国である』と云う「天孫降臨」を皇基とする「神国思想」に基づいた物語である。国づくりにとって最も重要な事は「大王家」の出自問題であり、「神国思想」を掲げて天下統一を図ったのである。上古の伝承に基づいて想起されていると云うものの、王権にとって権威上都合の悪い事は作為され隠されている。神話の表裏を読み解いていく事が肝要である。

「記紀」による「神武東征」の物語のあらすじは次の通りである。
天孫「鵜葦草葺不合命」の子「磐余彦命」が新天地を求め三人の兄「五瀬命」「稲飯命」「三毛沼命」と子息「手研耳命」の一族を引連れて、日向を出航し、「瀬戸内ルート」で東へ向い、大和の入り口河内湖に至るが、そこで生駒山の土着民の「長髄彦」の抵抗に遭い、先見役の「饒速日命」から熊野への迂回を進言され、熊野へ向う途中男の水門で長兄の「五瀬命」が死亡し、熊野新宮沖で二人の兄が遭難死し、四兄弟の内「磐余彦命」のみが生き残った。

 「磐余彦命」は子息「手研耳命」と共に陸路八咫烏の案内を得て、熊野から大和へ入るが、大和へ先回りした先見役の「饒速日命」が高倉山頂に現れ、周辺に八十梟の軍勢が構えていることを告げ、物語の場面から消え去った。「磐余彦命」はこの地の豪族「弟磯城」と懐柔し無事大和入りを果した。「天照大御神」の天孫として橿原の地で即位し、初代天皇「神倭磐余彦命」を拝命した。

 「神倭磐余彦命」は新天地で正妃を娶り三人の皇子「彦八井耳命」「神八井耳命」「渟名川耳命」を儲けるが、三皇子は皇位継承を巡り、嫡子「手研耳命」が皇位を狙っているのを知り、「手研耳命」を射殺した上、兄「彦八井耳命」と弟「神八井耳命」は末弟の「渟名川耳命」に継承権を譲り、「渟名川耳命」が皇位を継承した。皇位を譲った二人の兄弟は皇統から姿を消した弟「神八井耳命」は皇統の外に出て皇室の支援をする事になった。そして「意富氏族」の祖神として多神社に祀られた。

 「九州南部に入植した一族が当地の国土を開拓するも、新たに新天地を求め東征をした」と云う国土創生の物語は真実を伝えているが、「国の始まる以前から天祖がいて、天孫が代々皇位を継承し、国を治める」と云う「神国思想」は現世では通用しない概念であり、この事象を現実の世界に引き戻して考える事から謎解きが始まる。実在した人物は誰々か?、「天照大御神」、「天忍穂耳命」、「瓊瓊杵命」、「彦火火出見命」、「鵜葦草葺不合命」、「磐余彦命」等々それぞれ誰か?を特定して、出自の謎を解く事が真実を明らかにする事である。

 「記紀」の「神武東征」編に登場し、途中物語の本筋から消え失せた神(捨て石として人物登場させた神)を整理して見ると、「磐余彦命」の四人兄弟の内の三人の兄達「五瀬命」「稲飯命」「三毛沼命」「磐余彦命」の子の四人兄弟の三人の兄達「手研耳命」「彦八井耳命」「神八井耳命」、さらに先見役として派遣された「饒速日命」、生駒山で抵抗勢力として現れた「長髄彦」(消された神と云うよりもすり替えられた神)が登場するが死亡したり、殺りくされたり、退場したり、すり替えられたりして物語の本筋から消え失せた。

 登場人物の身分や立場から見ると三つの消された理由が考えられる。
「神武天皇」の四人の兄弟が登場するが、三人の兄が不慮の事故で死亡したのは、天皇家の皇統継承が争うことなく自然に継承された事を示す意図があった。
「神武天皇」の四人の皇子が登場するが、皇統継承者を残して他の三人の皇子が死亡したり役目を終えたのは、皇統の中に天神でない地祇の存在があってはならない事から、天孫降臨の系譜上そぐわない実存神を抹消する意図があったと考える。
「神武東征」の大和入りには種々の抵抗勢力が現れて一行の進路を阻んできたが、先見役の「饒速日命」によって犠牲を未然に防ぎ、無事目的地入りを果たした。又「神武天皇」の側近中の側近「長髄彦命」が生駒山に現れて、大和入りを阻止する抵抗勢力の「長髄彦」に仕立てたのは、神の力をしても超えられない程の困難に耐え、苦難の末に東征事業に成功した一行の偉大性を称え、正当な手段で倭国を獲得したと云う「国の成り立ち」を強調する意図があったと考える。

 「天照大御神」から「神武天皇」に至る「天孫降臨」の出自に祖語がない様に「神国思想」に照らして都合の悪いものを削ぎ落とした。上古の伝承や事跡など歴史的事象を「神国思想」に副って焼直したと云える。皇統の中で天孫(天神)に該当しない神(地神)を登場させない事で、皇統継承の正統性と天皇権威の絶対性を説く「神国思想」は倭国家統合に於いて絶対に必要な事であったと云える。

 皇統の中に名を連ねるに具合の悪い神は『「磐余彦命」を冠せられた実存神』である。その神は「彦八井耳命」であり「神八井耳命」である。「彦八井耳命」「神八井耳命」は系譜上「神倭磐余彦命」の皇子となっているが、古代において家来など従属する者は子として扱われる。それは決して主人の前に出てはならないからである。本来ならば子ではなく「神倭磐余彦命」と同列にいた神であると思われる。

 また別の知見からすると、「阿蘇氏系図」によると「彦八井耳命」の弟の「神八井耳命」「意富族」等の祖で、子の「建磐龍命」や兄達は阿蘇地方の国づくりに務め、九州鎮護と国土統一の事業の一翼を担い、九州阿蘇地方を中心に繁栄した系統の豪族で、「火君」、「大分君」、「阿蘇君」、「筑紫三宅連」、「雀部臣」、「小長谷造」、「都祁直」、「伊余国造」などを輩出したと云われている。兄「彦八井耳命」弟「神八井耳命」は元々日向在地の豪族で、弟「神八井耳命」五ケ瀬川を遡上し阿蘇地方に進出し、阿蘇地方に朝鮮半島の阿羅から渡来した「意富族」と交わり吸収した事から、「意富氏族」の祖とされている。この様に日向を拠点として九州を支配した大豪族が存在していた事が覗える。

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  日向隼人族「鵜葦草葺不合命」の息子達の兄「彦八井耳命」は東拓へ、弟「神八井耳命」は阿蘇開拓へ旅立った。

 諸々の考察から「神武東征」で大和へ渡来した「磐余彦命」は実は日向の豪族「彦八井耳命」であると結論づけるに至った。そして先見役として東征を成功裏に導いたと云う「饒速日命」は、新天地開拓をめざし、東征を見事に成功させた「彦八井耳命」と同一神(同一人物)であると結論づける。この結論に至った瞬間、小生の喉に二十五年間も痞えていた「神武東征」の謎と云う棘(トゲ)が抜け落ちた。

[阿蘇氏系図+私案系譜]

磯城族ーーーーーーーーー伊須気依姫命
             |-----ー磯城河俣姫命
                     |
積羽八重事代主ーーーーー蹈鞴五十鈴姫命  |ーーーー安寧大王
             |       |
             |----ー綏靖大王
             |
           神武大王
         |・↑彦八井耳命(兄)
         | (東征)
鵜葦草葺不合命ーー|                          若姫命
         |(意富神社祭神) (阿蘇神社祭神)           |
         |・神八井耳命(弟)ー健磐龍命               |ーーー阿蘇氏
          (阿蘇開拓)     |    (阿蘇神社祭祀者)   |
                     |ーーーーー速瓶玉命ーーーーー彦御子命
                     |    (阿蘇国造の祖)
                    阿蘇津姫命


(5)・2 新天地をめざしていざ出発

 「日向隼人族」系豪族「鵜葦草葺不合命」の子「彦八井耳命」「日向隼人族」の頭)が速吸の瀬戸を乗り切る航海術に長けた海人「天多禰伎命」「多禰隼人」「日向隼人族」)に舟同して、日向の美々津を出発し宇佐津へ着いた。宇佐津から筑紫の岡田津へ移動し瀬戸内海の航海に長けた「阿多隼人族」「安日彦(大日諸)族」に協力を願い外洋船の大舟を調達し、大勢の協力者を従え大船団を組んで、大和を目指して筑紫岡田津を出航したのが「神武東征」の発端である。

 古事記の記載によると宇佐を経て岡田宮(福岡県)で一年、多祁理宮(広島県)で七年、高島宮(岡山県)で八年を過ごした後茅渟海に入り三島江に至る。彼らを運んだのは「阿多隼人族」の海人「安日彦命」「大日諸命」)、妹「三炊屋姫命」、弟「長髄彦命」の三人兄妹弟と海人「大隅隼人族」であり、多祁理宮直近の航海の拠点大三島を経て三島に至る。多祁理宮の地と高島宮の地、三島江の地は共に先住縄文人「鴨族」の入植地でもある。

 日向を出航し宇佐を経て岡田宮に寄港し大三島に至るまでは「阿多隼人族」の海人「安日彦族」が舟運帯同した。大三島から三島江まで「阿多隼人族」「天日方奇日方命」(後に八咫烏の功績で賜った名前)が八咫烏(航海の案内役)の役割を担った。又渟名川(淀川)の河口にある大隅島を拠点にする「大隅隼人族」「椎根津彦命」が吉備国の拠点まで出迎えに行き、高島宮から三島江までの水先案内役を担い、一行は無事三島に入植する事になる。日向を出航して三島に至るまで十六年の年月を費やしている。

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    「神武東征」一行船団のイメージ図

 岡田宮の一年は小舟から大舟への乗り換えや船団の整備、食料、水、櫂子などの調達、準備や特に古代舟は潮流や季節風の力を借りなければ航海は難しいため潮待ち、風待ちに費やしたであろう。

 多祁理宮高島宮で七~八年費やしているのはなぜだろう。多祁理宮高島宮の造営地は「鴨族」の入植地であり食料の調達には誠に好都合であった。多祁理宮直近の大三島の拠点は船が着岸できる浜があり、水補給できる湧き水があり、舟を造る巨木がある数少ない島であるが、稲作には不向きであったため多祁理宮の地に頼らざるを得なかった。

 高島宮直近の拠点港は吉備の児島湾の河口にあえう小さな島で陸から全てのものを調達せざるを得ないために、食料や物資を調達するために「鴨族」の住む陸地に宮を造営した。

 縄文時代後期に入植した「鴨族」陸稲耕作を営み、収量は上がらず自給自足が精一杯であったと思われる。「彦八井耳命」は持って来た水稲種籾水稲耕作を試みて、目途が立つのに七~八年を費やしたと見る。

 「彦八井耳命」(後の「神武天皇」)はなぜ水稲種籾を持って東征したのか? 何を以って大王の地位に登り詰めたのか? 「神武東征」は交易による「稲作文化」の伝播の物語であったと考える。

 九州豊国の日向には縄文時代に南方から陸稲耕作が伝わり弥生時代後期には九州北部から水稲耕作が入って来た。しかし南国系陸稲種籾は南国日向では良く育ったが北方系水稲種籾は南国日向では育ちにくかった上、日向の地は旧石器時代から弥生時代初期にかけて五箇所にも亘る火山大噴火に見舞われ、降灰の積み重ねにより形成された火山台地の低湿地であり、十分な水田可耕地を得ることが出来なかった。

 旧石器時代に姶良沖の鹿児島湾カルデラ、一万年前の縄文時代草創期に櫻島、四千年前の縄文時代早期に鬼界島カルデラ、三千年前の縄文時代前期に池田湖カルデラ、二千年前の縄文時代後期に開聞岳が大噴火して、なかでも鬼界島カルデラの大噴火の降灰は九州豊後地方、四国、瀬戸内海、紀伊半島南部まで広範囲に及んでいる。

 この様な理由から日向の海人系豪族「彦八井耳命」は良く育つ耕作地を求めて日本列島(大八島)の東方を目指して開拓に乗出し、水稲種籾を最大の交易品として、「水稲耕作文化」の伝播を計ったのではないかと考えるに至った。

 最初の立ち寄り先の多祁理宮で試験耕作を繰り返すも、耕作条件が今一で、さらに東方の吉備国に立ち寄り試験耕作をするも河川の氾濫や塩害などに遭い思う様にはいかなかった。しかし児島湾での塩田開拓は条件的に勝れうまくいき、「鴨族」にも製法を伝授し、交易品の一つに育て上げた。

 さらに東方に舟を進め三島の地に辿り着いた。この地には在来弥生人の「陶族」とその兄弟の「溝咋族」と「三島鴨族」が居住していた。「溝咋族」の祖先は前八~九世紀頃弥生時代早期に摂津の茨木市を流れる安威川中流左岸の中津付近、牟礼遺跡や溝咋神社が鎮座する地域に降臨、居住した。「溝咋族」は原土を採取、粉砕、水簸し陶土をつくる技術や舟運交通の運河や環濠、河川の洪水を防ぐ疎水や堰、水田への取水溝などの導水施設をつくり、多方面に水を分配する水繰りの技術を持ち合わせ、「鴨族」の農耕技術、摂津地方の水利条件、水稲種籾が出会って日本列島(大八島)の最初の水稲耕作に成功し、「稲作文化」の革命を起した。高槻市の「安満遺跡」は日本列島最古の大規模水田遺跡である。また茨木市の「牟礼遺跡」は舟運による道として運河に護岸杭を打って造成した最古の遺跡である。

 三島鴨神社縮小1_convert_20160813124200 溝咋神社B縮小1_convert_20160813124840
  祖神「積葉八重事代主命」を祀る三島鴨神社と祖神「溝咋耳命」を祀る溝咋神社

 溝咋神社縁起A縮小1_convert_20160813125358 安満遺跡D縮小1_convert_20160814171851
  溝咋族は水田に水を引いた神である事を示す神社縁起と日本最古の大規模水田遺構である安満遺跡

 水稲耕作に成功した「彦八井耳命」は三島の地に十数年滞在することになるが、「溝咋族」、「三島鴨族」を吸収一体化し、三島を饒(ゆたか)な土地に育て、三島の大豪族として君臨し「登美饒速日命」と称せられた。登美は豊耳(豊国の長)の意である。


      

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