好々彦の神代文化考

神話と系譜と足跡を元に”古代人の生き様”を読み解き、新しい古代史の視点を提案する。きっとあなたの古代史観が変わる!                                                              

外来文化が拓いた日本の国  

(1) 窯焚き技術が拓いたヤマト王権

(1)・1「建甕槌命」が画期的「窯焚き技術」を発明した。


 土師器(埴輪など)を釜窪などで野焼き焼成する焼成方法を「酸化焼成」と云う。これに対して陶器(水漏れしない硬質陶器、焼き締め陶器など)を穴窯などで焼成したり、炭を用いて鉱石を溶鉱炉で焼成精錬する方法を「還元焼成」と云う。

土師器の焼成野窪などの真中に成形品を置き、周囲に薪を積み空気に触れる面を多くして酸素を供給し、温度を上げて焼成する「酸化焼成」の技法である。前二世紀以前から行われていた。

陶器(須恵器)の焼成穴窯の焚口から薪を入れ空気を十分に送り込みながら焚き、煙突から排気をしながら「酸化焼成」をし、温度を上げ所定温度に達すると、焚口と煙突を封鎖し酸素供給を断ち、薪を炭化焼成させて「還元焼成」する技法であり、さらには陶器内部の酸素をも取り込んで焼き締める「還元焼成」と云う技法である。前二世紀頃から行われていた。

金属の精錬方法釜窪に薪を積み上げ、その上に鉱石を積み上げ、薪に着火して鉱石を自然発火させ、鉱石が融けない程度の高温の「酸化焼成」で前処理をし、鉄分を酸化鉄にし、硫黄分を揮発させ、不純物を飛散させる。次に溶鉱炉に酸化鉄と触媒の石灰石と硅石と炭を入れ「還元焼成」し粗鉄とスラグに分離する技法である。つまり炭を使って脱炭するのである。二世紀頃から行われた。

 この「還元焼成」と云う「窯焚き技術」をまとめると、は薪を炭化焼成して土器などを焼き締める「窯焚き技術」であり、は炭で「還元焼成」して鉱石を精錬する「窯焚き技術」である。この「窯焚き技術」「土器の焼成」「金属の精錬」の二つが得られる画期的な技術である。

 の金属精錬法「窯焚き技術」を発明したのが「窯焚きの神」あるいは「火焚きの神」とされる「建甕槌命」で、古代史上最大の発明と云っても過言ではない。また「建甕槌命」は古代史上最も重要な神として位置づけられており、「倭朝廷」がすぐさまこの神を取り込んだ理由も肯ける。

「建甕槌命」の出自について考察する。

 系譜では、「阿知馳族」「吉野鴨族」が交わり、「出雲土師族」が出現、「出雲土師族」の娘「伊須気依姫命」「神武大王」が結ばれ「出雲神門臣」三輪神主家の大臣)を輩出した。「出雲神門臣」の娘「出雲沙麻奈姫」「神武東征」八咫烏の役を担った「天日方奇日方命」の孫「建飯勝命」が結ばれ「建甕槌命」が誕生した。つまり「建甕槌命」「大王家」係累の「土師族」と海人「阿多隼人族」後に「加茂氏族」の血が交わって生まれたのである。

 その「建甕槌命」「伊勢鴨族」の娘「幡主賀具呂姫」と結ばれ、「大伴氏族」の祖「大御食持命」を生み、子孫に「太田氏」「大枝氏」を輩出する。

 [系譜で見る「建甕槌命」の出自]

           天日方奇日方命ーーー阿多津奇根命建飯勝命
          (八咫烏)     (加茂氏の祖)  |   (紀の大伴氏の祖)
               神武大王           |----建甕槌命
               |             |    ( 窯焚きの神)
               |---ーー出雲神門臣ーー出雲沙麻奈姫
吉野鴨族(万木麿美穂彦)    |
  |         |・伊須気依姫
  |---出雲土師族ー|
  |  (土師族の祖)|・磯城黒速命-ー 出雲臣ーーーー出雲鞍山祇姫
阿智馳族(白玉姫)     (磯城倉下)         |
                             |ーーーー大部主命
                             |  ( 中央の大伴氏の祖)
              大山咋命ーーー大田田根子命大御気持命
             (意富族の祭神)(三輪神主家)(三輪族)

 神話では、出雲の「大国主命」に国譲りを迫るための使者として「建甕槌神」が選ばれ出雲に派遣され、出雲の伊那佐の浜に十握(とつか)の剣を逆さまに突き刺し、切っ先にあぐらをかいて座し国譲りを迫ったとあり、又「建甕槌神」イザナギが香具槌(火山の神)を剣で切った時にほとばしった血(溶岩鉄)から生まれた。そして「大国主命」から広矛を授かり日本の平定に向ったとある。国譲りには剣の力が大きな役割を果たした事を示している。

 この事から「建甕槌命」「武神」とか「剣の神」として日本の国の開拓を進めてきた神と解釈されているが、しかし「剣の神」「真剣」は火山の噴火による溶岩鉄から生まれたとある事など剣が産まれた因果が語られており、国づくりには剣を創った氏族(「鋳鍛冶族」)の存在を示唆している。、神話は真実を伝えていると云える。

(1)・2「土の神」「木の神」の出会いから「土器文化」が出現

 葛城地方の原住民「葛城赤星」と交わった海人「阿智馳族」が吉野の越に土着して切り拓いた土器の野焼き技術と渡来先住民の「吉野鴨族」の祖先伝来の土建技術や薪造りの技術が交わって、本格的な土師器をつくる「出雲土師族」が出現した。

縮小土師器A_convert_20160531115512_convert_20160531162925 - コピー 縮小縄文野焼きカラー_convert_20160531165926
         土師器は野焼き焼成と云う原始的な方法で焼かれた。


 縄文時代の土器づくりは野焼きで焼成する技法で行われた。野焼き焼成は800℃前後の焼成温度以上は得られないので、専ら「赤土」が使われた(鉄は溶融温度が低いため、鉄分を多く含む「赤土」600℃~800℃で焼成可能である)。土師器は赤味を帯びた素焼き土器で、野焼き焼成のプリミティブな方法で造られ、埴輪や炉台や壺形土器が中心であった。

 「出雲土師族」「大王家」と血縁関係を結び「朝廷」お抱え族となるが、子孫の「出雲神門臣」「三輪神主家」の大臣)系から輩出された紀の「大伴氏族」(祖は「大御食持命」)と「三輪神主家」を拝命した「大田田根子命」と血縁関係にある「出雲臣」系から輩出された中央の「大伴氏族」(祖は「大部主命」)の二系統に分岐し、「土師器、埴輪文化」が花開くことになる。

 「土師族」は土器を焼く技術だけでなく造墓や造殿の基壇、土塁、道路造りなどの「版築技術」を開発した。「版築」は粘土と塩と真砂土を順に5㎝程度の厚さに突き固め積層し、これを繰り返し重ねていく。塩は粘土の水分を取り除き、土を強固に固める。土固めは杵を突いて行う杵築と云う方法であるが、面積が広くなると多人数が必要になるので、古代人は大男二人が向き合って互に肩を組み合って四股を踏み、土を固めることを考え付いた。この姿が相撲の原点である。また踏み固めた基壇が土俵の原点である。

版築縮小1_convert_20160802144530 版築工法
         版築の断面層と杵築による土固めの様子

 初瀬の出雲郷を拠点にする「出雲土師族」が二上の当麻郷に進出したのが「野見宿禰」「当麻蹴速」の戦いの下りである。

 「出雲土師族」「大王家」と血縁関係にある「物部氏」の支配下のもと、多くの伴部を抱えた「大伴氏族」として、渡来工人集団「額田部氏」馬飼部石撞部など)や「日下部氏」馬津など)と協同して、「朝廷」の支配国の建設に携わり、「古墳文化」を築いていく。

(1)・3「土の神」「火の神」の出会いから「土器文化」・       「鉄器文化」が出現

 海人出身の「阿知馳族」「野焼き技術」酸化焼成)と係累の火生霊神「天押立命」を祖神とする「陶族」「窯焚き技術」炭化焼成)が交わって本格的な陶器をつくる「陶津耳族」が出現した。簡単に云うと「土の神」「火の神」の出会いから陶器が生まれた。またこの「窯焚き技術」「陶(須恵)技術」だけでなく「鋳鍛冶技術」にも発展し、「金属の精錬」の革命を興した。

 もう一つの革命は「耐火土」の発見である。窯造り鋳型造りには「耐火土」が必要不可欠で、穴窯などで陶窯造りのみならず「鋳鍛冶技術」開発にも大きく道を拓いた。伊賀地方の「耐火土」伊賀在地豪族が発見したものであるが、伊賀国の鋳鍛冶の溶融炉るつぼ鋳型はこの「耐火土」で造られた。「陶器文化」のみならず「鋳物師文化」を飛躍的に発展させたのは「耐火土」の発見のお陰である。

縮小須恵器A_convert_20160531170536 縮小穴窯構造図B_convert_20160531121047_convert_20160531163412
  須恵器は穴窯による画期的な「窯焚き技術」で焼成された。/右図は穴窯の構造を示す。

 弥生時代に入って穴窯による画期的な窯焚き技術「還元焼成法」が発明され、水漏れしない薄型、硬質、高硬度の須恵器が造られる様になった。穴窯による「還元焼成法」1000℃~1300℃の焼成温度が得られるため、鉄分の少ない「白土」の土器造りが可能になった。須恵器は灰色を帯びた硬質焼き締め土器で水漏れしないため、水甕や食器や炊事用釜や食糧保存用の壺や甕棺や筒形棺や土管など多くの生活用具や祭祀具が作られる様になった。

 「陶津耳族」の子孫の「陶津耳命」「神武東征」倭入りの陸の八咫烏の役目を担い、「賀茂氏」の姓を賜り「賀茂建角身命」と称し、また葛城、山城、山背の地を賜り、「朝廷」の加護を受け国土開拓に励む一方の「鋳鍛冶技術」を導入する諸国の豪族のお抱え族となって、「鋳物師文化」を築く礎となった。

 また生業の陶器づくりは磯城の桜井邑から河内の須恵邑に移動して「陶器の一大文化拠点」を拓くことになる。和泉陶邑に根付いた「陶族」「土師族」と共に「造墓集団」の一翼を担い甕棺埴輪を製作し、「豪族」や「大王家」の古墳造りに貢献し、「古墳文化」が開花した。

 [系譜で見る「土師族」と「陶族」の出自]

                  万木麿美穂彦(吉野鴨族)
        ▼野焼きの神      |ーーーーーーーーーーー出雲土師族(土師族の祖)
      |・天智馳族ーーーーーー白玉姫(埴輪の神)
海人阿知族ー|           ▼窯焚きの神
      |・天知迦流美豆姫 |・奥津彦命ーーーーーーーーー陶津耳族(陶族の祖)
         |------|
火生霊命ーーーー天押立命    |・安玉姫(赤土の神)
        ▲火焚きの神      |---------ーー天津赤星(香具土保有)
                  葛城一言主神(葛城の原住民)

 「陶族」として葛城地方で力を揮った「賀茂剣根命」葛城国造)は「和珥氏」の祖「天忍男命」と交わり、五代「孝昭大王」妃を生み、「大王家」係累の「和珥氏」と深く結び付く。「和珥氏」の子孫「彦坐王」(初代「丹波道主命」丹波国造)は新羅渡来工人集団の長「国押富命」に連れられて丹波国に入植した渡来工人集団の一族「大分丹生族」(水銀の採掘、精錬を生業とする)の「息長水依姫」「息長氏族」祭神)と交わり、「山城息長氏」「丹波息長氏」の二系統の「息長氏」を輩出する。

 「山城息長氏」は代々山城鴨県主を務める。一方「丹波息長氏」は子孫に「彦宇斯王」(二代「丹波道主命」四道将軍丹波国造)を得て、その娘の「日葉酢姫命」は十一代「垂仁大王」の正妃となり、十二代「景行大王」「倭姫命」を儲け、子孫の「和珥彦押命」「和珥氏」の姓を賜り、以来「和珥氏」和珥腹と云って代々「大王家」に妃を送り込み栄えることになる。

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(1)・4 「葛城族」「鋳鍛冶文化」の礎を築いた

 「大王家」と血縁関係にある「葛城族」の「高倉下命」と子孫たちは丹土、丹鉄を求めて宇陀から名張、山添、伊賀、淡海(おうみ)へと開拓を進めて、野洲川流域を居留地とした。四代孫の「彦伊賀都命」の代に「伊賀土」耐火土)が発見された。これを契機に「鋳鍛冶文化」が飛躍的に発展を遂げる。

 耐火土1500℃~2000℃の高温に耐えることの出来る鋳型を造るのに不可欠な特殊な土である。この耐火土は現在の伊賀上野から島ケ原、童仙房広沢地区に至る耐火粘土鉱床の限られた地域に産するもので、現代では火にかけても割れない伊賀土鍋は古窯伊賀焼の特産品となっている。

 「伊賀土」の発見に期せずして、「朝廷」紀伊国御食国として管轄する「中臣氏族」「伊香津臣命」と画期的な「窯焚き技術」を発明した「建甕槌命」新羅の新しい「鋳鍛冶技術」を持ち込んだ「額田部湯坐命」の三族を「彦伊賀都命」が治める伊賀国に派遣した。

 「彦伊賀都命」新羅の新しい「鋳鍛冶技術」と画期的な「窯焚き技術」「伊賀土」と豊富にある「薪炭」と田上の「砥石」を得て、伊賀の地で日本初の鉄剣、鉄器の鋳造をし、「鋳鍛冶文化」を築き、さらに子の「天知夷沙比止命」水口を、その子の「川枯彦命」淡海を開拓した。

 三世紀頃、新羅鋳鍛冶技術職人「額田部大加賀美命」が入植し、淡海蒲生銅鐸銅鏡を鋳造し、鋳物師邑を拓き「鋳鍛冶文化」をさらに隆盛させた。

聖地三上山縮小1_convert_20161020151957
 鋳鍛冶族の祭神「天御影命」が祀られている聖地「三上山」

 伊賀、水口、淡海に至る野洲川流域の地を「鋳鍛冶族」の拠点とし、近江富士と称せられる「三上山」を聖地として、「彦伊賀都命」鋳物師族)の祖神「天御影命」を祀り、鋳物師たちが魂を注いで鋳造した真剣「布都御魂神」と銘打って「大王家」の聖地である「三輪山」に奉納された。

 「朝廷」伊賀国伊賀水口、、淡海)を御食国「朝廷」の管理地)とし、「物部氏」「食国政申大夫」(けのくにまんもすおおぶ)に任ぜられ、伊賀国を掌握管理することになる。「物部氏」「大王家」の聖地である「三輪山」石上神宮を創建し、「布都御魂神」神剣)や「鋳物師」の祖先の「霊」を奉斎し、「物部氏」が代々神主を務める。以来、石上神宮「大王家」ゆかりの神宮として、後には「物部氏」氏社として、崇拝される様になった。

 「朝廷」から伊賀国へ派遣され、鋳鍛冶立国「伊賀国」を築き、御食国に仕立て上げた「中臣氏族」は、更に「鉄資源」を求めて東国の開拓を進めることになるが、この件については「中臣氏考」として、別途投稿する予定。










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外来文化が拓いた日本の国  

(2) 四つのルートで伝播した外来文化

 一世紀頃、弥生中期の朝鮮半島の状況は北に高句麗、西に百済、南に伽羅の諸国が配置され、四つのルート「朝鮮半島の文化」が伝わった。

  縮小外来文化図B
    「外来文化」伝播ルート関係図

新羅(斯盧)→隠岐→鳥取ルート鳥取神を祖神とする海人「鳥取族」により「鉄器文化」が伝播した。

百済→松露・筑紫ルートツングース中国の文化が高句麗経由で百済に入り、「鴨族」等により百済から松露筑紫「青銅器文化」が伝播した。

伽羅→筑紫ルート伽羅国「製鉄文化」「意富族」により伽羅から筑紫基肄に伝播した。
 
 二代「綏靖大王」の頃、伽羅国「製鉄文化」筑紫に拠点を置く「意富族」「須佐男命」を信奉する伽羅国から入植した氏族)の鉱山師「大田田根子命」が伝播した。伽羅国鋳鍛冶工人集団「別雷神」を連れて、紀ノ国沿岸の水利権を持つ二代目八咫烏「阿多津奇根命」に導かれ、紀ノ國鳥取郷に渡来入植し、赤鉄鉱や赤土から鉄を造る「鋳鍛冶技術」を伝来した。

 当時の「鋳鍛冶技術」は神業的な技術であったため神格化して工人たちを「雷神」と呼んだ。そして「鋳鍛冶族」「薪づくり」「鋳鍛冶」と仕上げの「研磨」まで一貫して一族で行っていた。十代「崇神大王」の代に神話が創生された際に「薪づくり」「研磨」は独立分離されて、「天麻比止都禰神」「天戸間見命」の二神が想起され、三神一体で「雷神」とされた。

 その子孫達は紀ノ国の大伴郷に住み着き倭国の出雲郷に住む「出雲土師族」と交わって、名草山の赤土、和泉陶邑辺たりに産する豊かな薪と窯土を得て、「鋳鍛冶技術」を発展させ伽羅国「製鉄文化」紀ノ国に根付き始めた。

 その事は「倭朝廷」にとって王権を揺るがす衝撃的な事態であり、鋳鍛冶工人集団を取り込むべく「大田田根子命」「朝廷」の最重要要職「三輪神主家」「大王家」の祖先を祀る三輪山神主の役)に任じ、「雷神」「神武東征」八咫烏を担った「賀茂建角身命」係累の「賀茂氏族」に従属させ、「朝廷」の配下に治め、取り込んだ。そして「賀茂剣根命」「葛城族」「天村雲命」が領有する葛城の県「葛城国造」の姓を授けた。爾来「剣根命」「大王家」に妃を送り込み、権勢を揮い葛城の大豪族となる。「葛城氏族」「天村雲命」「賀茂氏族」「剣根命」葛城の地「国譲り」したのである。「天村雲命」「朝廷」から但馬国紀伊半島沿岸から伊勢湾岸の開拓を命じられ「但馬国」に派遣され移住した。

 各地に「鋳鍛冶技術」を伝えた「雷神」「朝廷」によって「三輪神主家」の別族として「賀茂建角身命」の系譜(「建角身命」の娘「建玉依姫」の養子として縁組)に「賀茂別雷神」として組み込まれたため「別雷神」と呼ばれるようになった。以降「賀茂建角身命」を祖とする「陶族」「鋳鍛冶族」を取り込み掌握する事になった。後世に、「賀茂別雷神」「賀茂建角身命」の子孫「賀茂剣根命」によって葛城坐火雷神社の祭神として、また上賀茂神社の祭神として祀られた。太祖の「賀茂建角身命」下賀茂神社の祭神として祀られた。以降日本列島各地で開拓される製鉄産地は「三輪族」が管理する「朝廷」の直轄地となる。

 この「鋳鍛冶技術」は葛城、三島、山背、大江、播磨(姫路、川西、三木、小野)、福知山、亀岡、但馬、出石、吉備などの赤鉄鉱や丹鉄の原料鉄産地へと伝えられ花開き、以降紀ノ国倭国伊賀国播磨国但馬国淡海国美濃国尾張国三毛国製鉄国として栄えた。

新羅(金官)→筑紫ルート・・・新羅「製鉄文化」旧伽羅国金官から筑紫に伝播した。

 二世紀から三世紀頃、新羅国伽羅国を併合したため、海人「鳥取族」金官から筑紫基肄に至る朝鮮半島倭国を結ぶ最短ルートを得て、九州や日本列島の瀬戸内側や太平洋側との交易が出来る様になった。

 「鳥取族」新羅国渡来工人集団の長「国押富命」率いる多くの工人集団を連れて紀ノ国鳥取郷に渡来入植した。その渡来工人集団は以下の面々である。

 「額田部石凝姥命」(鋳凝湯伎)・・・鉄や銅の「鋳鍛冶技術」を伝えた神(鋳物師の祖)

⊿ 「天麻比止都禰命」・・・炭焼き工人肥国有馬郷が本拠地)で「石凝族」と一体となって仕事をする工人集団で「麻気神」「薪神」と云われる。

⊿ 「天戸間見命」(砥磨神)・・・「金属研磨技術」を伝えた神「砥石神」

⊿ 「額田部馬飼い族」・・・馬の放牧、畜産、馬力による耕作、泥濘や川の渡渉、重量物の牽引運搬、儀礼飾馬、早馬、駅馬など馬繰り工人

⊿ 「日下部馬津族」・・・舟による水運から陸運へと荷を引き継ぐ時、道なき道の沼地や葦原の中を馬で荷を運搬する工人で、馬津を設置し(日下、草加、草津、久坂、草香、草部、深草などの地名に残る)、馬による荷運や巨石や巨木を運搬する工人

⊿ 「額田部石撞族」・・・巨石切り出し、運搬、加工する工人

⊿ 「大屋津彦命」「五十猛命」が祖神)・・・造船、造港湾、造殿などの「築造技術」を伝えた神(大工の祖

 新羅から「玉造り文化」のみならず「鋳鍛冶文化」「馬飼い文化」「馬津文化」「造船、造殿文化」など多彩な文化が導入され、壮大な「古墳文化」の花が開いた。これらの技術や文化は紀ノ国河内国倭国の葛城・磯城、伊賀国へと伝わった。特に「鋳鍛冶技術」伊賀国で花開いた。

 [鋳鍛冶族関係系図]
                 ※印は天孫族               伊賀へ派遣・移住した神
                                           ↓
                 宇佐津臣命ーーーーーーー御食津臣命ーーーーーー伊香津臣命
                (工人集団を舟運帯同)            (御食国の管理)

大山咋命(山師族の祖)ーーーーーー大田田根子命ーーーーーー大御気持命ーーーーーー意富伊賀都命
                (渡来工人集団を帯同) (大伴氏族の祖)   (伊賀土を発見)
※神武大王           (三輪神主家)
   |ーーーーーーーーーーーーー出雲神門臣ーーーーーーー出雲沙麻奈姫
伊須気依姫命(出雲土師族)                 |
                              |---------建甕槌命
                              |        (窯焚き技術を発明)
天日方奇日方命(八咫烏)-ーーーー阿多津奇根命ーーーーーー建飯勝命
                (加茂氏の祖)

                ※天津彦根命      ※天御影命
高倉下命(葛城族の祖)------八玉彦命ーーーーーーーー阿自加伎哀命ーーーーー彦伊賀都命
               |ーーーーーーーーー|             (原料鉄の採掘)
※天糠戸命(額田部の祖神)--| ※別雷神    |ーー※天湯河桁命
(筑紫基肄に入植した神)   |ーーーーーーーーー|
               | 額田部石凝姥命 |ーーー額田部湯河桁命ーーーー額田部湯坐命
               | ※天麻比止都禰命|             (鋳物師族)
               | ※天戸間見命  |
               |ーーーーーーーーー|
                   |
                   |--------※賀茂別雷神
                   |        (葛城坐火雷神社祭神)
               |・賀茂建依姫命     (上賀茂神社祭神)
賀茂建角身命(陶族の祖)-ーー|
(下賀茂神社祭神)      |・賀茂建依彦命ーーーーーー賀茂剣根命
                            (葛城国造)


category: (2)四つのルートで伝播した外来文化

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外来文化と技術が拓いた日本の国  

(3) 朝廷を支えた四大氏族

 「倭朝廷」「国づくり」は強力な四大氏族「中臣氏」「物部氏」「大伴氏」「土師氏」に支えられ成し遂げられた。中でも「朝廷」の土性骨となったのは「中臣氏」で、大和国家の根幹を築いた功績は大きい。「中臣氏考」について、別途論考を投稿する予定。

(3)・1 朝廷の重臣「物部氏」

 「大王家」の血統(祖先の御霊)を正当化するために「大王家」の聖地「三輪山」に代々の大物主「大王家」の血統を継承する者)を祀り祭事を行い、子孫代々に亘り家系を伝承する神主の役割を「物部氏」(魂部氏)が担った。

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  「大王家」先祖代々の御霊が聖地「三輪山」に祀られた。

 「神武大王」の正妃「蹈鞴五十鈴姫命」の父「鴨族」四代目大物主の「積葉八重事代主命」の先祖や大物主(「鴨族」の血統を継承する者)も「三輪山」に祀られた。

 「神武大王」の嫡子「宇摩志麻遅命」三島の味舌に住んでいたが、三輪に呼ばれ、初代当主「物部氏」の姓を賜った。「物部氏」は代々「食国政申大夫」役職領地を賜り、「三輪山」の聖地に「大王家」大物主を祀り祭事を行う神主の役割を担うものである。「物部氏」二代当主「彦湯坐命」「紀ノ国」を賜り、三代当主「出石心大臣命」「但馬国」を賜った。

 「紀ノ国」は縄文古来からの先住民「鴨族」「丹生族」「加茂氏族」「神武東征」八咫烏を担った功績で「加茂氏」を賜った)や一世紀頃、新羅の渡来工人集団を率いて入植した「大田田根子命」が交わって、「伴部」「鴨部」渡来工人集団を抱える「大伴氏族」「加茂氏族」「紀氏族」などの豪族が居住し、丹土、丹鉄採掘や鋳鍛冶で栄えた国で、「朝廷」が最初に「御食国」とした「朝廷」の直轄地である。

 「但馬国」は縄文古来からの先住民「鴨族」や海人「安曇族」「鳥取族」や新羅の渡来工人集団「額田部族」が居留する国で、翡翠採掘や玉造りや水銀採掘や鉄鍛冶で栄えた。一世紀~二世紀頃、「大王家」係累の海人「葛城族」「天村雲命」が日本海の交易ルートの開拓のため但馬の地に派遣され、出石の豪族「額田部湯桁命」「鳥取族」に率いられ入植した鋳鍛冶工人集団の一族)と交わり、「但馬国」を治める豪族となった。「朝廷」「物部氏」三代当主「出石心大臣命」「食国政申大夫」の役職と「但馬国」を授け直轄地とし、二国目の「御食国」となった国である。

 二世紀頃、「朝廷」「鋳鍛冶文化」を築いた「彦伊賀都命」伊賀国造)が治める伊賀の地を「御食国」とするために、「物部氏」四代当主「大水口宿禰命」「食国政申大夫」の役職と「伊賀国」を与えて、「朝廷」の直轄地とした。

 伊賀国の領主となった「大水口宿禰命」は、「鋳鍛冶族」が魂を傾注して鋳造した最初の一振りの剣を「鋳鍛冶族の祖先の魂が宿る剣」とみなし「布都御魂神」と銘打って、「物部氏」「三輪神主家」の御社として建立した「石上神宮」に奉納した。

 三世紀頃、「物部氏」は新羅国の鋳鍛冶工人集団の一族の「額田部大加賀美命」「額田部築箪命」蒲生の地に入植させ銅鐸銅鏡を鋳造させ、「鋳鍛冶技術」の進展は頂点を極めた。蒲生郷は後の世まで「鋳物師の里」として栄えるが、天祖「天照大御神」御魂代としての「神鏡」はこの「鋳物師の里」で創られ、「倭朝廷」の直轄地である諸国において「天照大御神」御魂代としての「神鏡」を祀らせた。その「神鏡」を祀った神社を「元伊勢神社」又は「元伊勢神宮」と云う。

 更に「物部氏」「大田田根子命」の子孫で「中央の大伴氏」の祖といわれる「大部主命」が輩出した「大伴氏」「佐伯氏」などの豪族が築いた国を掌握管理し、「朝廷」を支える強力氏族となった。

 「賀茂剣根命」に国譲りした「天村雲命」「吉野丹生族」の首「伊氷鹿命」を帯同して「但馬国」若狭へ移住し、その子孫は「吉野丹生族」と交わり若狭の豪族「笠水彦命」を輩出し、若狭国造「若狭彦命」を拝命し舞鶴を本拠地とし「海部氏」の祖となる。一方、子孫の一枝は伊勢湾岸の開拓を担う「天村雲命」係累の「加茂氏族」「天忍人命」と交わり、「尾張氏」の祖「天戸目命」を輩出し、「天戸目命」「葛木剣根命」の孫娘「葛木避姫」と交わり、子孫の「建田小利命」が愛知の熱田に本拠を置き「尾張国」の豪族となる。「朝廷」は領地として「但馬国」「物部氏」三代当主「出石心大臣命」に、「淡海国」から「尾張国」「物部氏」四代当主「大水口宿禰命」に与えて掌握管理させ「朝廷」直轄地とした。特に「淡海国」彦根・稲部に展開する「鋳鍛冶族」睨み(にらみ)を利かせた。

 この様に、「物部氏」は全国に広がる「御食国」を掌握管理する様になり、全国津々浦々縦横無尽に物質を動かす権限を得て、まるで現代の総合商社の如く存在で、十数代に亘って隆盛を極めた氏族である。

 [物部氏の系譜]

高倉下命ーーー天津彦根命ーーーーー天御影命ーーーー彦伊賀都命ーーーーーー坂戸由良姫
(葛城族)           (鋳鍛冶族祭神)(鋳鍛冶族)      |(水口酒人)
活目五十呉桃日下部馬津久流久美阿野姫                |
                  |                 |ーーー大峰大尼命
|・安日彦命安日彦命の娘     |ーーーーーー神日子命       |(坂戸物部・水口酒人)
|       |         |     (阿刀部・物部氏の海部)|
|・三炊屋姫  |--------味堯田命             |・大矢口宿禰
  |     |       (三島県主)            |
  |----①宇摩志麻遅命ーーー②彦湯支命ー|・③出石心大臣命ーー|・④大水口宿禰ーーー
  |    (三輪)      (紀ノ国) | (但馬国)      (尾張国)
  神武大王                 |・大禰命        |・木食命
                       |            | (三河国造)
                       |・出雲醜大臣命ーーーーー|・六見命
                         (磯城県主)     | (屯倉の管理)
                                    |・三見命
                                      (漆部の管理)
ーー⑤大綜杵命ーー⑥内色杵男命--⑦伊香色男命ーー⑧十市根命
  (伊賀国)  (山城国)   (淡海国木ノ本)(倭国十市)


(3)・2 朝廷の重臣「大伴氏」

 古代史上最大の知恵者「意富族」の鉱山師「大田田根子命」は、筑紫から大分に移動して丹土や丹鉄や石灰石の採掘をしていた「大分大伴氏族」を日本列島の東に移動させ紀ノ国大伴郷に入植させて、紀ノ国に一大勢力を築いた。

 紀ノ国「鋳鍛冶文化」を築いた「大田田根子命」はその底知れぬエネルギーを畏れられ、「朝廷」に抱えられる身となった。「大王家」の祖先を祀る三輪山の神官(「三輪神主家」)を賜り、子孫は「大王家」と血縁関係にある「出雲土師族」「出雲神門臣」系)と交わり、「紀の大伴氏」と云われる「太田氏」「大枝氏」を輩出する。

 「大田田根子命」の妃の兄「阿多津奇根命」の子孫の「加茂氏族」「出雲土師族」「出雲神門臣」系)と交わり、「鴨部」「和邇部」「和仁古」)を輩出する。その「鴨部」「和仁古」は全国に展開する事になる。

 一方、「大王家」と親戚関係にある「出雲土師族」「出雲臣」系)と交わり、「中央の大伴氏」と云われる「大伴氏」「多田氏」「大田田根子命」を祭祀する氏族)や「鴨積氏」三輪神社を祭祀する氏族)を輩出する。

 「朝廷」直轄の「大伴氏族」「御食国」「朝廷」の直轄地)に配置され、全国を飛び回る根無し草の様なものであるが、豊後安芸伊予讃岐阿波播磨などに拠点を置き、巨石や巨木や鉱脈を求めて国土中を移動する民族で、砂鉄を求めて山陰地方の山地を駆け回る「山窩」(さんか)は「野の佐伯」「山の佐伯」と云われる「佐伯氏」「大伴氏族」)に属する「伴部」ではないかと思われるが、その行動や系譜は不明瞭である。

 「大田田根子命」直轄の「大伴氏」「太田命」「大枝命」を輩出し、「紀伊国」の開拓に従事する事になる。「大伴氏」は多くの「伴部」を率いる氏族である。例えば土師部陶部鍛冶部砥部鏡造部玉造部馬飼部・・・など多種多様な技能労働力を抱えた「倭国」最強の開拓集団であり、「倭朝廷」を支える強力氏族である。

 [大伴氏の系譜]

天日方奇日方命阿多津奇根命建飯勝命                  |・建飯賀田須命
(八咫烏)   (加茂氏)   |       |・豊御気主命大御気主命-|  →伊勢鴨部
神武大王            |ー建甕槌命--|             |・阿多賀田須命  
  |             |       |・大御気持命ー |・大枝命大枝氏  →磯部
  |-----出雲神門臣ーー出雲沙麻奈姫          |・太田命太田氏 →和邇部    
  |                                     
|・伊須気依姫
|・磯城倉下ーー出雲臣ーーーー出雲鞍山祇姫
                |
大山咋命ーーーー大田田根子命  |ー大部主命大友主命大伴豊日命大伴武日命大伴氏
         |      |
         |-----大御気持命
         |
鴨美良姫ーーーー鴨美気姫

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(3)・3 朝廷の重臣「土師氏」

 「土師氏」「陶津耳族」「葛城族」が交わり、「造墓専門集団」「埴輪製作専門集団」を輩出した。「造墓専門集団」は巨大墳墓の造営をし、羽曳野市藤井寺、道明寺一帯を本拠地とした。「埴輪製作専門集団」は狭山一帯で埴輪や甕棺を製作し陶邑を拓き本拠地とした。古墳造営や葬送儀礼に関わった「土師部」(曲部)である。

 古墳造営や葬送儀礼は、石棺製作に関わる「額田部」「石撞」「馬飼い」)や墳墓の土固め(版築)をする「和邇部」、種々の労役に従事する「伴部」、葬送祭事の設営、掃除、保守など墓守を行う「掃守部」「神守」)、葬送儀礼を進行する「忌部」、葬送祭事を主催する「神主」、墳墓の位置方位など築造条件を卜定する「卜部」「大王家」の墳墓管理を行う「和珥氏」など多くの部族や渡来工人集団などが関わって構築され、進化した。この「土師部」の集団が四世紀末から六世紀前までの150年間に亘り「古墳文化」を築いた。

 当初は土師器、埴輪の製作や墳墓の造営や葬送儀礼に関する労役に従事する「土師部」(品部)であったが十一代「垂仁大王」の代に「土師氏」の祖と云われる「野見宿禰」が土師職を賜り、曽孫の「土師身臣」が十六代「仁徳大王」から「土師連」を与えられ、後に「土師宿禰」を与えられて「土師氏」を名乗る様になった氏族である。

 「陶津耳族」「葛木剣根命」「大王家」に取入るために「葛城族」の「天忍男命」の娘を五代「孝昭大王」に嫁がせ、「大王家」の墳墓の造営を一手に引き受ける様になった。「天忍男命」の父「天村雲命」「朝廷」から北陸、紀伊半島及び以東の国の開拓を命じられ、領地葛城の地「剣根命」に国譲りをして但馬国へ移住した。子息の「天忍男命」河内国和泉を開拓し狭山の豪族となる。「剣根命」「天忍男命」の系属に妃を送り込み「造墓集団」を取り込み、「天忍男命」の系属を支配下に置いた。

 「天村雲命」但馬国へ派遣された理由は、但馬国は古来から新羅の渡来工人が入植席巻する強力豪族が支配する国であり、水銀採掘はもちろんだが「額田部石撞族」の巨石切り出し、加工技術や「額田部馬飼い族」の巨石運搬技術を導入すべく、「天村雲命」を派遣し、但馬国を支配下に治める事を目論んだと考える。

「造墓専門集団」を率いる「奥津世襲命」

 「天忍男命」の子息「奥津世襲命」「造墓専門集団」として、「額田部石撞族」(巨石の切り出しや加工をする曲部)や「額田部馬飼い族」(巨石運搬に従事する曲部)や「大伴氏族」(労役に従事する伴部)などを率いて、羽曳野の藤井寺や道明寺一帯を本拠地として巨大墳墓の造営に当たった。

 古墳F縮小1_convert_20160819134920 奥津城室宮山縮小1_convert_20160819140042
          土固めされた古代墳墓と王家や豪族の奥津城の雄姿

 古代では墳墓のことを「奥津城」(おくつき)と云った。「奥津」とは霊安所の意で、「城」とは四辺を囲んだ場=霊柩の意であり、被葬者の霊を安置する場所つまり墓室や墳墓のことである。「奥津世襲命」は「大王家」の巨大墳墓の造営を生業とした「土師氏」の祖である。

「埴輪製作専門集団」を率いる「建額赤彦命」

 「天忍男命」のもう一人の子息「建額赤彦命」「葛木彦命」)は御霊の鎮まる墓所を永遠なる世界として壮大な墓標演出をする「埴輪製作専門集団」として、狭山丘陵一帯を本拠地として多くの「伴部」を率いて陶器製作に加えて埴輪製作で和泉陶邑を拓き、「埴輪」づくりを生業とした「土師氏」の祖である。 

 埴輪H縮小2_convert_20160819142225 埴輪C縮小1_convert_20160819141438
         埴輪製作集団がつくる大量の埴輪と巨大墳墓の荘厳な埴輪列

 「埴輪」「野見宿禰」が殉死者の代用として発明したとされているが、後世につくられた伝説である。「野見宿禰」が存命した時代(十一代「垂仁大王」の代)と大きくずれているため、「天忍男命」一族が発明したものと思われる。「埴輪」は葬送儀礼の埴輪制度が廃止される八世紀まで「古墳文化」の花形であった。

「大王家」の墳墓管理を司る「和珥氏」を生んだ「世襲足姫命」

 五代「孝昭大王」に嫁いだ「世襲足姫命」「天足国押命」を儲け、叔父の「天忍男命」の孫娘「葛木宇那姫」と交わり「和珥彦押命」を儲けるが、「和珥彦押命」「和珥氏」の姓と「大王家」墳墓管理を司る役職を賜った。天孫族系「和珥氏」和泉陶邑を本拠地とした。

墳墓に版築を導入した「阿田賀田須命」

 春日県の和爾邑の赤坂に「阿田賀田須命」を祖先とする「和邇部」和仁古)が居留し、和爾坐赤坂彦神社に祖先を祀り、赤土の産地赤坂「和邇部」の本拠地とした。

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  和爾坐赤坂比古神社には製塩の神・阿田賀田須命と結びついた和爾赤坂の豪族の氏神が祀られている

 海人「加茂氏族」係累の「紀の大伴氏族」「阿田賀田須命」がなぜ造墓集団の「和邇部」の祖先として祀られたのか?

 「磯部」「和邇部」を輩出した「紀の大伴氏族」「阿田賀田須命」は、墳墓の土固めに必要な版築工法(塩で粘土の水分を除き土固めをする)を発明した「磯部」が造営する塩田を多方面(伊勢、紀の太田、播磨の赤穂、、吉備の児島)に展開し、塩の生産量を拡大し、版築用資材として赤土産地に供給した。また産地の赤土を「埴輪製作専門集団」に供給する基地とした和爾邑を、紀の大伴氏族系「和邇氏」が本拠地とした。

 版築埴輪製作は墳墓築造現場の近辺で採材、製作する事が基本で、墳墓が造営される国や土地において赤土や塩が産出した土地には赤坂や赤穂、、赤瀬、赤池、赤沼、などの付く地名が見られ、そこで赤土採取する部民が「和邇部」和仁古)と云われ、「製塩集団」の祖神「阿田賀田須命」赤坂彦神社の祭神として祀られた。吉備国赤坂にも赤坂彦神社があり、「阿田賀田須命」が祀られている。

 天理の和爾邑赤坂紀の大伴氏族系の「和邇氏」の拠点として、和泉陶邑を拠点とする天孫族系の「和珥氏」版築用資材を供給することで「造墓集団」の一族となった。

墳墓群の墓守をした「掃守部」の祖「天忍人命」

 「天忍男命」「天忍人命」は兄弟である。兄の「天忍男命」は娘を「大王家」に嫁がせ、王子「天足国押命」を儲け、弟の「天忍人命」は孫娘「葛木宇那姫」「天足国押命」に嫁がせ、「和珥彦押命」「和珥氏」を賜る)を儲ける。兄弟共に「大王家」に妃を送り込み、「天孫族」入りした。兄弟共に天孫族系の「和珥氏」の祖である。

 「天忍人命」は異母兄弟の「葛城出石姫」と結ばれ「天登目命」を儲け、娘の「葛木宇那姫」「天足国押命」に嫁いで「和珥彦押命」を儲けた。「天登目命」「和珥彦押命」の母方の祖父に当たり、「天忍人命」は曾祖父に当たる。

 「葛木剣根命」の孫娘「葛木避姫」「天登目命」に嫁ぎ、「葛木宇那姫」「建宇那比命」「建麻利尼命」「建斗米命」の四兄弟を儲けた。

 「葛木宇那姫」は五代「孝昭大王」妃となり、孫の「和珥彦押命」を儲け、七代「孝霊大王」の代に「和珥氏」を賜り、「大王家」の祖先代々の墳墓群の管理を担った。

 「建宇那比命」笛吹王「若犬甘命」「櫂子命」を儲け、孫の代に「笛吹連」を賜り葬送儀礼の吹奏楽師を担い、葛木地方に居留した。

 「建宇那比命」「海部氏」の祖とされているが、「海部氏」の系は「天村雲命」「葛木伊加理姫命」との間に生まれた「御蔭命」「天忍男命」「天忍人命」と異母兄弟)の子孫の「建田勢命」の系属が十五代「応神大王」の代に「海部直」の姓を賜って「海部氏」を名乗る様になったもので、「建宇那比命」「天忍人命」の子孫であり「海部氏」の系ではない。

 「建麻利尼命」「石作連大来」と云う「石作部」(石工集団)を掌握管理し石棺や石室、石廊など調達、製作、造営をし、当初は和泉地方を拠点としたが造墓現場を拠点に展開した。

 「建斗米命」「建多乎利命」を儲け、「建多乎利命」は被葬者の御霊を飾る神服副葬品や神事の祭服などを司る「神服連」を賜り、「服部部」を掌握管理して神服づくりを行い、造墓現場を拠点に展開した。

 この様に「天忍男命」の子孫は墳墓築造から埴輪製作まで墳墓築造、造営を行った氏族であるが、「天忍人命」の子孫は葬送儀礼の設営から造墓や掃除、保守、維持管理など墓守を行う「掃守部」または「神守」と云われる曲部を掌握管理した氏族である。

 「土師氏」「陶族」との関係を深めた「葛城族」「天村雲命」を祖とする「天忍男命」「天忍人命」の兄弟とそれぞれの子孫が「大王家」に妃を送り込み、、「大王家」の深部に入り込んで、「モガリ」の様式を含めた葬送儀礼と墳墓の築造を一手に引き受け巨大墳墓の造営をし、「古墳文化」を築き上げた。「朝廷」にとって「大王家」の祖先の御霊を祀ると云う最重要神事を担い、支えた最も信頼の篤い氏族である。

 [土師氏の系譜]

      |・葛木久多美命ーーーー葛木尾治置姫
葛木剣根命ー|            |-----ー建足筒草命ーー建真咋命ーーー諸石宿禰
      |・葛木加奈良知姫 |・建額赤彦命                (大海宿禰)
         |      |(埴輪製作専門集団)
阿比良姫     | ーーーーー- |・奥津世襲命
 |       |      | (造墓専門集団)
 |     |・天忍男命   |・世襲足姫命
 |ーーーーー | (土師氏の祖)   |-----ー天足国押命
 |     |・天忍人命    ⑤孝昭大王     |
 |        |     ▼(掃守氏の祖)   |ーーーーー和珥彦押命
天村雲命      |ーーーーーーー天戸目命     |    (和珥氏を賜る)
 |        |        |    |・葛木宇那姫
 |     |・葛城出石姫     |ーーーー|・建宇那比命ーー笛吹王ーーーー笛吹連
 |ーーーーー|           |    |・建麻利尼命ーー石作連大来
 |     |・御蔭命      葛木避姫         |・建田背命ーーー神服連
 |       |         |ーーーーーー建斗米命ー|
葛城伊加里姫   |       (尾張の豪族)(尾張氏の祖)|・建多乎利命ー 建諸隅命
         |                       ↓(建田勢命と交代)
         |--------笠水彦命ーーーー笠津彦命ーーー建田勢命ーー倭得玉彦命
         |       (若狭彦命)  (若狭国造)  ↓(若狭湾航海権譲渡)
伊氷鹿命ーーーー井光姫                       (山城国へ赴任)
(吉野丹生族の首)                               |・磯部
建飯勝命ーーーー建甕槌命ーーーーーー豊御気主命ーーー大御気主命ーー阿田賀田須命ー|(製塩)
(加茂氏族)                          (磯部氏の祖) |・和邇部
                                (和邇君の祖)  (版築)

 ※陶津耳族とその子孫  ※吉野丹生族を連れて但馬へ移住した海人葛城族とその子孫


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category: (3)朝廷を支えた四大氏族

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外来文化と技術が拓いた日本の国  

(4) 新しい金属文化をもたらした錬金術師たち

 三世紀頃九代「開化大王」の代、「国押富命」(開拓移民団の長)が鉄鋳鍛冶族の「都奴我阿羅斯等命」(「阿羅国津沼河の領主」)や採鉱精錬族の「額田部築箪命」や「丹生都姫命」を祖神とし、夜須基肄に渡来した丹生水銀族の「息長水依姫」(「息長氏」の祭神)と銅鋳鍛冶族の「額田部大加賀美命」を率いて、筑紫基肄に渡来、香春(河原)に入植した。

(4)・1 新しい製鉄法を伝播した「都奴我阿羅斯等命」

 「都奴我阿羅斯等命」「天日矛=あまのひぼこ」とも呼ばれる)は「物部氏」の海部である海人「安日彦族」に帯同し、大分の姫島を発して播磨の姫路、難波の姫島、淀川から宇治川を遡上し淡海国の琵琶湖に入り、草津の穴邑に一時拠点を置き、さらに琵琶湖の塩津を経て但馬国へ入り、敦賀若狭を経て豊岡出石に至り住み着いた。通過した各地で製鉄や精錬や窯業など技術を地元の人々に伝えた。

 九州北部や日本海沿岸に残る「天日矛」伝説地は「都奴我阿羅斯等命」など鉄鋳鍛冶工人集団が入植した地である事に間違いないが、「天日矛」「都奴我阿羅斯等」の別名であると定説化されていることに言及すると、「天日矛」「あまのひぼこ」ではなく「あひほこ」あるいは「あいひこ」である。つまり舟運帯同した海人「安日彦=あいひこ」の呼び名が転訛したと考える。

 江戸時代の国学者が、海人「安日彦族」に舟運帯同した「都奴我阿羅斯等」を同一視して「あまのひぼこ」と読んだ事に起因していると思われる。これが原因で海人「安日彦族」の歴史上の存在が希薄になっているのではないかと考える。「都奴我阿羅斯等命」については次カテゴリの(5)で述べる。

(4)・2 画期的な金属精錬法を伝播した「丹生水銀族」

 「丹生水銀族」「息長水依姫」「銅鋳鍛冶族」「額田部大加賀美命」「採鉱精錬族」「額田部筑箪命」は海人「安日彦族」に帯同して大分の宇豆高島を発ち、下関府中、神戸の御影淀川から宇治川を遡上し琵琶湖に入り、三上山の麓の蒲生に入植し、銅鏡銅鐸を鋳造し「鋳物師の里」を拓いた。

 「丹生水銀族」はさらに、米原の丹生川余呉の下丹生敦賀の丹生若狭の大丹生丹後半島琵琶湖西岸の高島など淡海国敦賀国但馬国を開拓した。

 二世紀頃、既に新羅国から「額田部」祖人「日本海ルート」但馬地方に入植し、鋳物師の郷を開いていたが、三~四世紀頃、十代「崇神大王」の時、但馬国に入植した「丹生水銀族」「息長水依姫命」は九代「開化大王」の王子「彦坐王」(淡海今津在住豪族で「丹波国併合」の命を受け「四道将軍」・初代「丹波通主命」として派遣された)と結ばれ、「彦宇斯王」「丹波息長氏」の祖、二代「丹波道主命」)と「水穂真若王」を儲けるが、既に「彦坐王」には正妃「和珥氏族」「袁祁都姫命」との間に王子「大筒城真若王」「山城息長氏」の祖)がおり、二系統の「息長氏」が誕生した。「丹波息長氏」は丹波、東淡海、尾張地方の水銀採掘を担い、「山城息長氏」は各地で採掘された水銀「朝廷」に集める役割を担った。これより「息長水依姫命」「息長氏」始祖となる。

 十代「崇神大王」の時代から本格的に「大和国家併合・統一」が始められたが、「水銀」によって「金」「銀」「銅」精錬鍍金(メッキ)が出来ると云う「魔法の錬金術」を持った「丹生水銀族」丹波国、現舞鶴市の行永地区に入植したのを契機に「大王家」はいち早く「丹生水銀族」を取り込んで、丹波国「朝廷」直轄地とした。その土地の女神と結婚して土地を領有したのである。

 [金属文化と丹波国併合の関係系図]

                 (丹生水銀族)
               |⊿ 息長水依姫   (2代丹波道主命)
     (新羅工人集団の長)|  |      |・彦宇斯王(丹波息長氏の祖)
        ⊿ 国押富命ー|  |------|
               | (鉄鋳鍛冶族)  | ・水穂真若王
               |⊿ 都奴我阿羅斯等ーー丹波遠津臣ーーーー高材姫 
                                     |
                |・伊理泥王ーーーーー阿治佐波姫     |ーーーー息長宿爾王
(和珥氏族)  |・彦国姥津命ー|           |        |   (朱智氏の祖)
和珥彦押人命ーー|       |・袁祁津姫      |ーーーーーーー迦邇米雷王
        |・意祁都姫    |         |      (朱智神社祭神)
          |        |ーーーーーーーー大筒城真若王(山城息長氏の祖)
          |       |(初代丹波道主命)
          |------ー彦坐王
         (丹波今津の豪族)|ーーーーーーーー日葉酢姫
(但馬鋳鍛冶族)|・丹波摩須命ーーー丹波摩須郎女    |
丹波由碁理命ーー|        (丹波河上姫)    |
 (湯凝)   |・竹野姫               |
           |ーーーーーー彦湯産隅命     |------⑫景行大王
        |・⑨開化大王  (丹波国造)     |        |
孝元大王ーーー|                   |        |
        |・大彦命ーーーーー御間城姫      |        |-ーーー⑬成務大王
                  |-------⑪垂仁大王      |
           |----ー⑩崇神大王               |
          伊香色謎命   |                  |
         (物部氏)    |ーーーーーーーー八坂入彦命ーーーー八坂入姫
(若狭湾を仕切る海部)       |       (丹波弥栄の豪族)
建斗目命ーーーーーー建多乎利命ーーー尾張大海姫
         (丹波国造)
                           ⊿印は丹波国に入植した新羅の渡来工人集団

 
 二代「丹波道主命」を賜った「彦宇斯王」若狭国造「笠津彦命」の系属が治める国の行永地区を開拓し、倉梯山「丹生水銀族」の聖地とし「息長水依姫命」「息長氏」の祖神として祀り、行永地区志楽郷倉梯郷を本拠地とした。

 「丹生水銀族」「朝廷」直轄の氏族として発足したことが「息長氏」発祥の由来であり、「行永」を本拠地とした事が「息長」と云う名の由来である。

 「行永」の地名の謂われは何か? 「行永」「ゆき」「湯伎」のことである。但馬国を支配した「物部湯支命」「湯支」但馬に入植した「額田部石凝姥命」「姥(おき)はゆきが転訛したもの=湯伎」「額田部湯河桁命」「湯河桁=ゆかけ」「但馬由碁理命」「由碁理(湯凝)=ゆごり」「開化大王」の王子で丹波国造「彦湯産隅命」「湯産隅=いぶす」などは鋳物師鋳鍛冶技術を表す言葉で「湯」が共通語になっている。

 鉱物を高温で溶かして液状にしたものを「湯」と云う。「鋳物師」ことばに「湯を注ぐ」とか「湯流れ」と云うのがある。「湯河桁」や「湯凝」や「湯産隅」は「湯」を造ったり、加工する技を持つ「湯伎(ゆき)」=「鋳物師」のことである。

 「行永」「なが」「ぬが」が転訛したもので「額=ぬが又はぬか」である。つまり含鉄鉱砂鉄など「額土=ぬかど」の意であり、「額田部」「額=ぬか」でもある。「行永」鋳鍛冶族「額田部」が拓いた「鋳物師」の郷の地名である。

 「丹生水銀族」はなぜ「行永」に入植したのか? 東舞鶴「行永」地方の北方の若狭湾に突き出た小さな半島に大丹生川が流れており、「お水送りの神事」が行われる場所が「水銀」の産地大丹生遠敷」である。この地は「若狭湾岸楕円構造線断層帯」に属し、上古から「水銀」がよく採れた。「行永」を拠点にして「水銀」採掘が行われていたのである。

 また、山城息長氏の祖「大筒城真若王」は琵琶湖を南下し、さらに宇治川を下り木津川を遡上し中流の京都市田辺付近の山代譜賢谷を拠点とし、「朝廷」直轄地で採掘される「水銀」を集積し、「朝廷」に貢納する役割を担った。また「息長氏」は子孫代々官名「真人」「真若」を名乗り「朝廷」の役人を務めた。丹波息長氏の祖「水穂真若王」の子孫「息長丹生真人氏」代々は滋賀県伊香郡余呉町上、下丹生や坂田郡米原町上丹生を開拓し、それぞれ余呉米原の醒ヶ井野洲郡一帯を拠点とし、さらに三重県桑名郡多度町丹生や岐阜県高山町丹生川村を開拓した。

 余談であるが、「息長氏」の祖神はなぜ女神なのか? 「丹生族」は元々「海人族」で、船の防腐に必要な「丹生」を自らの手で採取を始め、交易品としたのが始まりで、祭神「丹生都姫神」と云う女神である。「海人族」祭神もまた不思議なことに世界共通して女神である。「丹生族」の一枝「丹生息長氏族」の祖神も「水依姫」「彌都波能姫」)と云う女神であるのも不思議なことではない。「丹生氏族」「丹生都姫神」を、「丹生息長氏族」「息長水依姫神」を祖神とする。

 縄文、弥生時代から但馬国若狭国淡海国新羅国「鳥取族」「額田部族」により開拓され新羅系民族の居留地となり、「玉石」はもちろんのこと「丹生」「丹鉄」「水銀」などが産出し、新羅国朝鮮半島諸国と交易し、産地情報などの交流も十分になされていた。

 三世紀頃、朝鮮半島では新羅国伽羅国を併合したため、新羅人金官から筑紫を玄関口として「瀬戸内ルート」で先達の新羅人を頼って淡海国若狭国但馬国に入り、さらなる交易ルートの開拓を行った。

 九代「開化大王」の時代には但馬国若狭国淡海国尾張国伊賀国山背国紀の国吉備国は既に「倭朝廷」に併合され直轄地となっており、「物部氏」が厳しく「御食国」の管理を行っていた。

 但馬国若狭国淡海国で採掘された「水銀」「丹波息長氏族」によって西淡海の高島に集められ、「山城息長氏族」により大津を経て宇治川を下り、木津川を遡上し中流の井手玉水の津に舟運、集積され、山城県主を務める「大筒城真若王」が管理し「倭朝廷」に貢納した。

 「水銀」は常温で液体となる唯一の鉱物である。古代では「水」、「水穂」、「瑞穂」などと呼ばれていた。「お水取り」神事の「水」とは正に「水銀」を指した言葉である。「お水取り神事」については別途投稿する予定。

 古代に於いて「水銀」は「金」、「銀」、「銅」の精錬や鍍金(メッキ)をするのに重要な鉱物であった。「水銀」は「若狭湾岸楕円構造線断層帯」の他「中央構造線断層帯」及びその西端の「別府・島原地溝帯」の北端に多く産する。「丹生族」はこの地溝帯や断層帯に沿って西から東へと移動しながら丹生産地開拓をした。「倭朝廷」は丹生産地を次々と直轄化して、基幹産業として「国家」の礎を築いた。

 中央構造線断層帯C
     古代の「地溝帯」「断層帯」辰砂露出水銀がよく採れる「丹の道」であった。

(4)・3 「水銀」による魔法の錬金術
 
 古代の「水銀」による「金」や「銀」や「銅」の精錬・鍍金が出来る魔法の錬金術法について記す。

古代「水銀」の精錬方法

 自然水銀C縮小2_convert_20160905183544 丹土
  水銀鉱脈から露出した水銀玉と細かく粉砕された辰砂

 水銀精錬法と辰砂製造法縮小2_convert_20160906122737
  左は辰砂を陶器炉で加熱して「水銀」を精錬する様子、右は辰砂を細かく擂り潰す様子 

 水銀鉱脈水銀玉が露出している場合と「水銀」硫化化合物である辰砂丹土)から精錬し生産する場合がある。辰砂から精錬する方法は辰砂を陶器炉で加熱し水銀蒸気亜硫酸ガスを生じさせ、水銀蒸気を冷却、凝縮させて「水銀」を精錬する。

古代「金」「銀」の精錬方法

 金鉱脈から掘り出した金鉱を粉砕し粒状にして、「水銀」を混入接触させる(砂金の場合はカンナ流しの過程で)と「金」「水銀」に溶けて「金アマルガム」になる。この「アマルガム」350℃で加熱して「水銀」を蒸発させて「金」を冷却、凝縮させ「金」を精錬する。

古代「金」鍍金(メッキ)の方法

 「金」「水銀」を加えて「金アマルガム」」をつくり、銅鏡銅像などにタンポ刷毛などで塗り、350℃の炎で炙り「水銀」を蒸発させ、梅酢で洗って木灰などのアルカリで磨くと輝きのある「金」「銀」鍍金(メッキ)が得られる。余談になるが、終戦後小生が小学校五~六年生の頃、虱(しらみ)を退治する水銀軟膏水銀アマルガム)の配給があり、学童服の真鍮釦に塗り、二つの釦を擦り合わすと銀メッキになるのを楽しんだ記憶がある。

 古代に於いて、「金鍍金」(金メッキ)はさることながら「金」や「銀」を精錬するするにはどれ程「水銀」が重要な役割を果たしたか計り知れないものがある。「倭朝廷」が「丹土」や「水銀」の獲得に如何ほど心血を注いだかが伺い知れる。

 

category: (4)新しい金属文化をもたらした錬金術師

thread: 日本の国のなりたち - janre: 学問・文化・芸術

tag: 丹生水銀族  息長氏  息長水依姫  丹生都姫神  丹波息長氏  山城息長氏  丹波道主命  彦宇斯王  大筒城真若王  行永 
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外来文化と技術が拓いた日本の国  

(5) 朝鮮半島から伝播した「製鉄文化」

 人類はどの様にして「鉄」を入手したのか? ①地球に衝突した「隕石」の内、鉄分を含んだ「隕鉄」をそのまま「原料鉄」として使う方法。 ②鉄鉱石を精錬し「原料鉄」を得る方法。の二つの方法が考えられる。

 人類が最初に出会った「鉄」「隕鉄」である。「隕鉄」から「鉄」をつくるには、炉に「隕鉄」を入れ、火吹き筒などで高温を確保しながら長時間かけて加熱する熱間鍛造と云う方法による。

 日本列島に於いて地球上に降ってきた「隕石」を最初に拾ったのは縄文人である。この「隕石」と云われる石凝(いこり)の内、「鉄」を含んだ「隕鉄」と云われる石凝の存在を知り、この石凝を高温で加熱すると液状になる事を知り、「星」から降ってきた石凝「石」から「鉄」が生まれると云う不思議な「霊力」を持った「神石」であると信じられた。天から降ってきた「鉄」への信仰は古くから根強く存在し、神社に奉納され「ご神体」として崇められた。

 この「隕鉄」「星鉄」「天降り鉄」「隕星」などと呼ばれ、拾った縄文人「星」の銘を冠して「神」として崇められた。葛城地方「星鉄」を拾った縄文人「葛城赤星命」と称し、「星鉄」「朝廷」に献上した事から「天津赤星命」を賜った。また「常陸国」香取地方で拾った縄文人「甕星香香背男命」と称し「大甕神社」祭神として祀られた。

 「隕鉄」は鉄とニッケルの合金で溶ける温度が異なり、当時の「火焚き技術」では溶かす事は不可能であったが、三世紀頃「建甕槌命」の「窯焚き技術」の発明により「隕鉄」の鍛冶が可能になった。

 「赤星」が拾って「朝廷」に献上した「隕鉄」は三世紀頃、「伊賀国」で「鋳鍛冶族」によって「布都御魂剣」と銘打った「神剣」に生まれ変わり、石上神宮に奉納された。「甕星」が拾って「大甕神社」に奉納した「隕鉄」は三世紀末頃、「常陸国」の香取地方に派遣された「中臣氏」の「神聞勝命」と「鋳鍛冶族」によって「経津御魂剣」と銘打った「神剣」に生まれ変わり、石上神宮に奉納された。

 鉄隕石A縮小_convert_20161005154444 布都御魂剣記録縮小4_convert_20161019143850

 「星鉄」と云われる「隕鉄」(左)と石上神宮の禁足地に祀られている「布都御魂剣」の発掘記録(右)   右図出典;藤井稔著「石上神宮の七支刀と菅正友」(古川こ弘文館)

 この事により葛城や香取の地は「製鉄」の聖地として、この地を基点として製鉄地開拓が行われ、「製鉄文化」の花が開いた。 

続きを読む「葛城赤星命の出自と古代葛城族の全貌」→頁末の …続きを読む… をクリックしてください。

 このページでは「古代製鉄」の歴史(主として「古代鉄素材」と「古代鋳鍛冶法」の歴史)について考察する。前五世紀~前三世紀頃(縄文時代~弥生時代初期)、日本にはまだ「製鉄の技術」はなかった。ツングース(匈奴)から高句麗を経由、朝鮮半島南東部の辰韓、弁韓(後の新羅)に「鉄器文化」が持ち込まれた。

 新羅に伝播した鉄器は狩猟や武器として使われる「鉄斧」などが中心で、この「鉄斧」を半島の生活に合う様に農耕用の鋤や鍬などに「鍛造鍛冶技術」でリメイクされる様になった。

 この原料鉄としての「鉄斧」とリメイクする「鍛造鍛冶技術」が新羅から隠岐を経由、日本海沿岸の「因幡国」鳥取地方に伝わり、農耕用の鋤や鍬や玉造用の錐や造船用の工具などにリメイクされた。この「鉄器文化」が新羅から「因幡国」鳥取地方へ伝播した事が日本の「製鉄文化」のあけぼのとなる。

 前一世紀~一世紀頃(弥生時代)、「新羅国」が「鉄」を産する「伽羅国」を併合し、「鉄資源」と「鋳鍛冶技術」が相まって新しい「製鉄技術」が産まれた。「鉄鋌」と云われる短冊状の製鉄専用原料鉄を元に「鋳鍛冶」や「鋳造→鍛造鍛冶」の方法で、炭素を多く含み柔らかい鉄製品の農具や武器・武具がつくられた。

 原料鉄斧縮小2_convert_20161009155323 鉄鋌A縮小2_convert_20161009161115
  原料鉄として利用した「鉄斧」(左)と製鉄専用原料鉄の「鉄鋌」(右)(大成洞29号、2号古墳出  土ー宗像市HPより)

 二世紀頃(弥生時代)、「伽羅国」で「原料鉄」(鉄鋌、くず鉄など)と「硅石」を炉に入れ燃焼させ脱炭、脱滓を行う「溶融精錬法」で得られた粗鋼を鋳造して鋳鋼を得る「鋳鍛冶技術」で炭素を多く含み柔らかい鉄の鋳造剣(七支刀は鋳造剣と云われている)や農具がつくられた。

 「伽羅国」の「意富族」によって伽羅国金官の津と筑紫基肄間で交易され「紀の国」に伝わり、さらに日本の各地に伝播した最初の「製鉄文化」と云える。

 三世紀後半頃、「建甕槌命」の炭化焼成法と云う画期的な「窯焚き技術」の発明と「彦伊賀都命」による伊賀土と云う「耐火土」の発見と「伽羅国」から伝播した新しい「鋳鍛冶技術」が相まって、原料鉄は鉄鉱石から精錬が出来る様になり、しかも脱炭率の高い硬い「鉄」が得られる日本で初めての製鉄技法が開発された。

 赤鉄鉱や磁鉄鉱の「原料鉄」に「石灰石」と「炭」を窯に入れ「溶融精錬」し、「鍛造鍛冶」を行う技法で、炭で脱炭して炭素含有量の少ない「硬い鉄」(鋼鉄)が得られるため、あの切れ味鋭い「日本刀」が創られる様になった。これを契機に三世紀以降製鉄技術が向上し、生産量が飛躍的に増えていった。

 磁鉄鉱C縮小_convert_20161010142945 赤鉄鉱B縮小2_convert_20161010151544
  原料鉄の磁鉄鉱(左)と赤鉄鉱(右)ー出展:IPA「教育用画像素材集サイト」より
 古代製鉄法
  古代製鉄法→炉に「原料鉄」と「石灰石」と「炭」を入れ蹈鞴で風を送り込み高温で燃焼させ精錬する。

 朝鮮半島から伝播した古代製鉄法は「製鉄文化」を形成し、五回に亘る大波となって日本列島に打ち寄せた。

(5)・1 第一波「製鉄文化」

 前三世紀頃、縄文時代から弥生時代にかけて、ツングース(匈奴)の「鉄器文化」「鳥取族」により斯盧(後の新羅)から隠岐を経由して鳥取に、技術工人集団の長「国押鳥耳命」率いる「額田毘道男」を祖とする「額田部角凝魂」鍛冶技術工人)によって伝えられ、第一次「製鉄文化」が始まった。

 「額田部角凝魂」は交易で入手したツングース(匈奴)から伝播した鉄斧や鉄鑿(てつのみー丸太を刳り抜いたり、板を造ったり、石を穿ったりするノミ)などの鉄器そのものを「原料鉄」として「鍛造鍛冶」により農耕用の鋤や鍬や造船用の鑿(のみ)や錐(きり)などの木工具や玉造用の石を穿つ錐などにリメイクして、その地方に合った新しい用途に造り替えた。

 又、この頃「出雲鴨族」出雲地方に持ち込んだ銅剣銅鉾などを「銅原料」として儀礼用の幅広銅剣銅鉾銅鐸リメイクして日本固有の「青銅器文化」を築いた。後の世、この幅広銅剣銅鉾銅鐸は、「鉄鋌」「原料鉄」として流通した如く、「原料銅」として西日本各地に流通した。

(5)・2 第二波「製鉄文化」

 二世紀前後(弥生時代後期)の三韓時代の朝鮮半島南部は西に馬韓、中央に弁韓、東に辰韓が在り、弁韓の南には小国のが、辰韓の北には(わい)が在り、弁韓辰韓「鉄」を産した。『国は「鉄」を出す。馬韓は皆欲しいままに「鉄」を取った。古代中国の市場での貨幣取引の如く「鉄」を用いた』と「魏志韓伝」に記述されている。

 『皆「鉄」を取りに行った』と云っても、この時代どこの国も未だ「製鉄技術」を持っていない(持っていないと云うのが定説である。)とすれば、赤土鉄鉱石などの「原料鉄」だけを求めるはずがない。弁韓辰韓には既に「鉄」「製鉄技術」があり「製鉄」が行われ、「鉄製品」が造られていたと見るべきで、この「鉄製品」こそが貨幣取引の如く、交易の材料とされた「鉄鋌」であると考えられる。

辰韓には「鋳鍛冶族」額田部族)の祖人、弁韓には「山師族」の祖人が居留しており、額田部族の祖人の「鋳鍛冶技術」弁韓の祖人が採掘する「鉄素材」「薪炭」で以って炭素含有量が多く柔らかい低質の「銑鉄」(製鉄専用原料鉄)としての延べ板状の「鉄鋌」が生産された。この「製品鉄」を朝鮮半島のを通じて九州の筑紫間で「意富族」が盛んに交易をしていたと考える。

 二世紀頃(弥生時代中期)、その「意富族」山師族「大田田根子命」辰韓(後の新羅)の製鉄工人集団を連れて、「鋳鍛冶技術」「原料鉄」「鉄鋌」を携えて九州の筑紫基肄に渡来し、さらに「紀の国」鳥取郷に入植した。

 この製鉄工人集団は「額田部石凝姥命」(鋳鍛冶族の祖神)、「天麻比止都禰命」(薪神)、「天戸間見命」(砥磨神)の三神で合わせて「別雷神」と云われた。入植先の筑紫基肄や「紀の国」で弁韓から輸入した「鉄鋌」を「原料鉄」として「炭火」で高温鋳造した「鋳鉄」を「鍛造鍛冶」で農具や武具を造った。

 さらに「紀の国」に入植した「額田部石凝姥命」の子孫の「天湯河桁命」「額田部湯坐命」「紀の国」丹鉄赤土)などの「原料鉄」「石灰石」を加えて「炭火」で高温を得て、まだ炭素含有量は多く軟らかいが「鋳鋼」を造り、「鋳鍛冶技術」鋳造剣七支刀など)や農具などを造った。

 赤土B縮小_convert_20161011135400 七支刀D縮小2_convert_20161011141416
  原料鉄の「赤土」と鋳造剣とされる石上神宮の神宝「七支刀」

 余談になるが四世紀後半(弥生時代後期)の朝鮮半島の建国の状況を見ると、辰韓を併合し「新羅国」を、馬韓「百済国」を、弁韓馬韓の南部を併合し「伽邪諸国」を建国した。五世紀後半になって「新羅国」「鉄」を産する「伽邪諸国」の西半分の阿羅伽羅)地方を併合した。以後「伽羅国」は朝鮮半島と日本をつなぐ重要な役割を果たすことになる。「伽羅国」の前身は弁韓である。弁韓は「鉄」の産出国で日本の「製鉄文化」を築く発端となった。

(5)・3 第三波「製鉄文化」

 「紀の国」に入植した「額田部族」の「額田部石凝姥命」をはじめ子孫の「天湯河桁命」、「額田部湯坐命」、「額田部柱津命」と子孫代々に亘り新しい「製鉄文化」を伝え、伊賀や神戸などに広く伝播した。

 和泉鳥取郷に入植した「額田部族」を掌握管理していた「加茂氏族」係累の「建甕槌命」(「大伴氏族」や「伊勢鴨部」を輩出する「紀の国」の名門豪族)は鉄鉱石の精錬を可能にする画期的な「窯焚き技術」を発明した。それは「炭火」で鉄鉱石を脱炭する精錬法(「炭化焼成法」)である。古代史上最大の発明で「窯焚きの神」と云われ、「神剣」誕生に結びついた事から、「倭朝廷」に於ける最高位の「神」として崇められた。

 一方伊賀の地に於いては、「葛城族」の「高倉下命」と子孫が丹土や丹鉄を求めて宇陀、名張、山添、伊賀へと開拓を進め、伊賀の地に至り、「高倉下命」の三代孫の「彦伊賀都命」(猪名部の祖)が鋳鍛冶に必要不可欠な「耐火土」(伊賀土と称し鋳型や窯や溶鉱炉を造る「耐火土」で、広沢地区耐火粘土鉱床で採れる)を発見した。

 「朝廷」「御食国」を管理する「中臣氏族」「伊香津臣命」「朝廷」から「伊賀国」に派遣され、伊賀土を発見した「彦伊賀都命」と画期的な「窯焚き技術」を発明した「建甕槌命」新羅「鋳鍛冶技術」を継承する「額田部湯坐命」「額田部族」を統率する「意富伊賀都命」の四族を率いて新しい「鋳鍛冶技術」の創生を目指して伊賀の地に移住した。

 伊賀の地で五族が力を結集し、「鉄鉱石」を「原料鉄」として、炉に「鉄鉱石」と「石灰石」を入れ「炭火」で高温燃焼し脱炭、脱滓する「溶融精錬」を行い、「錬鉄」や「鋼鉄」を得て「鍛造鍛冶」を行う日本初の革新的「製鉄法」を開発、確立した。「鋳鍛冶族」は伊賀郡猪田郷・猪田や伊那具の地を拠点として活動し、それぞれこの地の一大豪族となった。

 猪田郷で最初に創られた一振りの「剣」「鋳鍛冶族」の祖先の「御魂」として「猪田神社」に祀られたが、「大王家」直轄地三輪山に建立し、後に「物部氏」氏社となる「石上神宮」「布都御魂剣」と銘打って奉納された。この「神剣」「溶融精錬」で得た「錬鉄」鍛造する「和鍛冶」と云う技法で造られたものであると思われる。検証はされていないが、「鋼鉄」を得て鍛造する「韓鍛冶」と云われる技法で造られるのは、本格的に鉄鉱脈床を開拓して「製鉄」が行われる湖北木之本以降ではないかと考える。

 猪田郷で新しい「製鉄文化」を拓いた「彦伊賀都命」は「伊賀国造」を賜り、その子「天知夷沙比止命」は水口郷を拓き「伊賀国造」を継承し水口の豪族となった。「朝廷」は「伊賀国」を「直轄地」として掌握管理するために「物部氏」の四代当主「大水口宿禰命」と五代当主「大綜杵命」を二代に亘って派遣した。

 「鋳鍛冶族」を率いて伊賀の地に移住して「伊賀国」を鉄生産地に仕立てた「中臣氏族」の「伊香津臣命」は次の「御食国」づくりを目指して居留地の伊香立を発って湖北の鉄鉱脈開拓のために「鋳鍛冶族」を連れて伊香郡木之本村に移住した。子孫代々に亘ってこの地を開拓し、「製鉄」の一大拠点を築いた。

 さらに「中臣氏族」は木之本村を拠点に尾張や相模や鹿島へと開拓、展開していくが、「伊香津臣命」の孫の「神聞勝命」は東北開拓に派遣され、木之本を発ち鹿島へ移住し、東北の「製鉄」拠点を拓き、「製鉄文化」を築いた。

 湖北では良質な「鉄素材」が得られる鉱床伊吹山、七尾山、古橋、金糞山、西浅井、北マキノ、甲塚など)が多く、伊賀の地で開発した「鋳鍛冶技術」を基にした「製鉄法」炭素含有量の少ない良質の「鋼鉄」が得られ強靭な日本刀が作れる質・量伴った本格的な「製鉄」が行われる様になった。

(5)・4 第四波「製鉄文化」

 四世紀頃(古墳時代)、「新羅国」から筑紫に渡来した「鋳鍛冶族」の「都奴我阿羅斯等」や「採鉱製錬族」の「額田部築箪」や「銅精錬族」の「額田部大加賀美命」や筑紫に居留する「水銀精錬族」の「息長水依姫」などの「技術工人集団」を率いる「国押富命」が「物部氏」の「海部」である海人「安日彦族」に帯同、「瀬戸内海ルート」で播磨、姫路、米原穴邑、敦賀、小浜、豊岡、出石に渡来、「鋳鍛冶技術」を伝えた。

 彼らが伝えたのは「溶融精錬法」で精錬した「半溶溶鉄」を取出し、繰り返し「赤熱反復鍛造」し脱炭、腔滓し「錬鉄」や「鋼鉄」を生成する「大鍛冶」と云う技法である。

 又、蒲生の地に入植し、「鋳物師の里」を拓いた「額田部大加賀美」は十代「崇神大王」の代に、「天照大神」の御魂代としての「八咫鏡」を鋳造し諸国の「元伊勢神宮」に奉納し祭祀に貢献した。

(5)・5 第五波「製鉄文化」

 五世紀以後古墳時代後期に、朝鮮半島の阿羅諸国が滅亡し、多くの知識や技術を持った伽羅国人が筑紫に渡来した。筑紫の基肄を拠点とする鉱山師の「武内宿禰」は新しい「鋳鍛冶技術」(砂鉄から原料鉄を造る)を持った鋳鍛冶工人「楯人宿禰」(後の「仁徳大王」)や「基肄宿禰」(「木菟宿禰」)、「蘇我石川宿禰」、「巨勢小柄宿禰」、「波多八代宿禰」、「若子宿禰」、「木羅斤資」(「木満致」)等多くの文化人や技術工人を率いて海人「阿知族」の「味師内宿禰」に舟同し三島江の対岸の内里に入植した。

 さらに一行を葛城に移住、帰化させ、葛木地方に「たたら製鉄」と云う新しい「製鉄文化」が根付いた。そして羽曳野、藤井寺堺方面に広がり、さらに多量の砂鉄を求めて中国地方の吉備や出雲地方に広がって行った。

 「たたら製鉄」は砂鉄を鉄素材として原料鉄の「銑鉄」を造り、溶融、鍛造を繰り返す「大鍛冶」と云う技法で、「錬鉄」や「鋼鉄」を造る「ズク押法」と原料鉄の「鋼鉄」(「玉鋼」)を直接造る「ケラ押法」の二つの方法がある。造った「錬鉄」や「鋼鉄」を原料鉄として「鍛造鍛冶」を行う。「ズク押法」では包丁や農機具、工具などの刃物を造り、「ケラ押法」では日本刀を造る。この様に日本刀に代表される日本特有の「刀鍛冶の文化」を伝えた。

 「たたら製鉄」法の基本は「耐火土」で強固に築いた「炉」に木炭を燃やしてその上に砂鉄を敷き詰め、これを繰り返し積層し、木炭を還元(炭化)燃焼させ、蹈鞴を踏み続け三昼夜燃焼して「鉄」を得る。

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    古代「たたら製鉄」のイメージ図

 「ズク押法」間接製鉄法と云い「銑鉄」を造る事を目的とし、砂鉄赤目砂鉄と云い閃緑岩系を母岩としチタンが多く、炭素量が高く融け易い「鉄」鋳物に適す)が得られる。これを「大鍛冶」で脱炭し「鋼」(左下鉄)や包丁鉄を得る。

 「ケラ押法」直接製鉄法と云い砂鉄から直接「鋼」玉鋼)を造る方法で、砂鉄真砂砂鉄と云い花崗岩系を母岩としチタンが少なく、伸ばしたり鍛える事が出来、焼きを入れて硬くする事が出来るので刃物工具に用いる。

 余談になるが、「たたら製鉄」はなぜ日本独自のものとして発展したかは「鉄山秘書」「たたら製鉄」三大要素に示されている。

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category: (5)朝鮮半島から伝播した製鉄文化

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