好々彦の神代文化考
神話と系譜と足跡を元に”古代人の生き様”を読み解き、新しい古代史の視点を提案する。きっとあなたの古代史観が変わる!
外来文化と技術が拓いた日本の国 
2016/08/10 Wed. 15:01 [edit]
(3) 朝廷を支えた四大氏族
「倭朝廷」の「国づくり」は強力な四大氏族「中臣氏」、「物部氏」、「大伴氏」、「土師氏」に支えられ成し遂げられた。中でも「朝廷」の土性骨となったのは「中臣氏」で、大和国家の根幹を築いた功績は大きい。「中臣氏考」について、別途論考を投稿する予定。
(3)・1 朝廷の重臣「物部氏」
「大王家」の血統(祖先の御霊)を正当化するために「大王家」の聖地「三輪山」に代々の大物主(「大王家」の血統を継承する者)を祀り祭事を行い、子孫代々に亘り家系を伝承する神主の役割を「物部氏」(魂部氏)が担った。
「大王家」先祖代々の御霊が聖地「三輪山」に祀られた。
「神武大王」の正妃「蹈鞴五十鈴姫命」の父「鴨族」四代目大物主の「積葉八重事代主命」の先祖や大物主(「鴨族」の血統を継承する者)も「三輪山」に祀られた。
「神武大王」の嫡子「宇摩志麻遅命」が三島の味舌に住んでいたが、三輪に呼ばれ、初代当主「物部氏」の姓を賜った。「物部氏」は代々「食国政申大夫」の役職と領地を賜り、「三輪山」の聖地に「大王家」の大物主を祀り祭事を行う神主の役割を担うものである。「物部氏」二代当主「彦湯坐命」は「紀ノ国」を賜り、三代当主「出石心大臣命」は「但馬国」を賜った。
「紀ノ国」は縄文古来からの先住民「鴨族」や「丹生族」や「加茂氏族」(「神武東征」の八咫烏を担った功績で「加茂氏」を賜った)や一世紀頃、新羅の渡来工人集団を率いて入植した「大田田根子命」が交わって、「伴部」や「鴨部」や渡来工人集団を抱える「大伴氏族」や「加茂氏族」や「紀氏族」などの豪族が居住し、丹土、丹鉄採掘や鋳鍛冶で栄えた国で、「朝廷」が最初に「御食国」とした「朝廷」の直轄地である。
「但馬国」は縄文古来からの先住民「鴨族」や海人「安曇族」、「鳥取族」や新羅の渡来工人集団「額田部族」が居留する国で、翡翠採掘や玉造りや水銀採掘や鉄鍛冶で栄えた。一世紀~二世紀頃、「大王家」係累の海人「葛城族」の「天村雲命」が日本海の交易ルートの開拓のため但馬の地に派遣され、出石の豪族「額田部湯桁命」(「鳥取族」に率いられ入植した鋳鍛冶工人集団の一族)と交わり、「但馬国」を治める豪族となった。「朝廷」は「物部氏」三代当主「出石心大臣命」に「食国政申大夫」の役職と「但馬国」を授け直轄地とし、二国目の「御食国」となった国である。
二世紀頃、「朝廷」は「鋳鍛冶文化」を築いた「彦伊賀都命」(伊賀国造)が治める伊賀の地を「御食国」とするために、「物部氏」四代当主「大水口宿禰命」に「食国政申大夫」の役職と「伊賀国」を与えて、「朝廷」の直轄地とした。
伊賀国の領主となった「大水口宿禰命」は、「鋳鍛冶族」が魂を傾注して鋳造した最初の一振りの剣を「鋳鍛冶族の祖先の魂が宿る剣」とみなし「布都御魂神」と銘打って、「物部氏」が「三輪神主家」の御社として建立した「石上神宮」に奉納した。
三世紀頃、「物部氏」は新羅国の鋳鍛冶工人集団の一族の「額田部大加賀美命」や「額田部築箪命」を蒲生の地に入植させ銅鐸や銅鏡を鋳造させ、「鋳鍛冶技術」の進展は頂点を極めた。蒲生郷は後の世まで「鋳物師の里」として栄えるが、天祖「天照大御神」の御魂代としての「神鏡」はこの「鋳物師の里」で創られ、「倭朝廷」の直轄地である諸国において「天照大御神」の御魂代としての「神鏡」を祀らせた。その「神鏡」を祀った神社を「元伊勢神社」又は「元伊勢神宮」と云う。
更に「物部氏」は「大田田根子命」の子孫で「中央の大伴氏」の祖といわれる「大部主命」が輩出した「大伴氏」や「佐伯氏」などの豪族が築いた国を掌握管理し、「朝廷」を支える強力氏族となった。
「賀茂剣根命」に国譲りした「天村雲命」は「吉野丹生族」の首「伊氷鹿命」を帯同して「但馬国」若狭へ移住し、その子孫は「吉野丹生族」と交わり若狭の豪族「笠水彦命」を輩出し、若狭国造「若狭彦命」を拝命し舞鶴を本拠地とし「海部氏」の祖となる。一方、子孫の一枝は伊勢湾岸の開拓を担う「天村雲命」係累の「加茂氏族」の「天忍人命」と交わり、「尾張氏」の祖「天戸目命」を輩出し、「天戸目命」は「葛木剣根命」の孫娘「葛木避姫」と交わり、子孫の「建田小利命」が愛知の熱田に本拠を置き「尾張国」の豪族となる。「朝廷」は領地として「但馬国」を「物部氏」三代当主「出石心大臣命」に、「淡海国」から「尾張国」を「物部氏」四代当主「大水口宿禰命」に与えて掌握管理させ「朝廷」の直轄地とした。特に「淡海国」彦根・稲部に展開する「鋳鍛冶族」に睨み(にらみ)を利かせた。
この様に、「物部氏」は全国に広がる「御食国」を掌握管理する様になり、全国津々浦々縦横無尽に物質を動かす権限を得て、まるで現代の総合商社の如く存在で、十数代に亘って隆盛を極めた氏族である。
[物部氏の系譜]
高倉下命ーーー天津彦根命ーーーーー天御影命ーーーー彦伊賀都命ーーーーーー坂戸由良姫
(葛城族) (鋳鍛冶族祭神)(鋳鍛冶族) |(水口酒人)
活目五十呉桃ー日下部馬津久流久美ー阿野姫 |
| |ーーー大峰大尼命
|・安日彦命ー安日彦命の娘 |ーーーーーー神日子命 |(坂戸物部・水口酒人)
| | | (阿刀部・物部氏の海部)|
|・三炊屋姫 |--------味堯田命 |・大矢口宿禰
| | (三島県主) |
|----①宇摩志麻遅命ーーー②彦湯支命ー|・③出石心大臣命ーー|・④大水口宿禰ーーー
| (三輪) (紀ノ国) | (但馬国) (尾張国)
神武大王 |・大禰命 |・木食命
| | (三河国造)
|・出雲醜大臣命ーーーーー|・六見命
(磯城県主) | (屯倉の管理)
|・三見命
(漆部の管理)
ーー⑤大綜杵命ーー⑥内色杵男命--⑦伊香色男命ーー⑧十市根命
(伊賀国) (山城国) (淡海国木ノ本)(倭国十市)
(3)・2 朝廷の重臣「大伴氏」
古代史上最大の知恵者「意富族」の鉱山師「大田田根子命」は、筑紫から大分に移動して丹土や丹鉄や石灰石の採掘をしていた「大分大伴氏族」を日本列島の東に移動させ紀ノ国大伴郷に入植させて、紀ノ国に一大勢力を築いた。
紀ノ国に「鋳鍛冶文化」を築いた「大田田根子命」はその底知れぬエネルギーを畏れられ、「朝廷」に抱えられる身となった。「大王家」の祖先を祀る三輪山の神官(「三輪神主家」)を賜り、子孫は「大王家」と血縁関係にある「出雲土師族」(「出雲神門臣」系)と交わり、「紀の大伴氏」と云われる「太田氏」や「大枝氏」を輩出する。
「大田田根子命」の妃の兄「阿多津奇根命」の子孫の「加茂氏族」は「出雲土師族」(「出雲神門臣」系)と交わり、「鴨部」や「和邇部」(「和仁古」)を輩出する。その「鴨部」や「和仁古」は全国に展開する事になる。
一方、「大王家」と親戚関係にある「出雲土師族」(「出雲臣」系)と交わり、「中央の大伴氏」と云われる「大伴氏」や「多田氏」(「大田田根子命」を祭祀する氏族)や「鴨積氏」(三輪神社を祭祀する氏族)を輩出する。
「朝廷」直轄の「大伴氏族」は「御食国」(「朝廷」の直轄地)に配置され、全国を飛び回る根無し草の様なものであるが、豊後、安芸、伊予、讃岐、阿波、播磨などに拠点を置き、巨石や巨木や鉱脈を求めて国土中を移動する民族で、砂鉄を求めて山陰地方の山地を駆け回る「山窩」(さんか)は「野の佐伯」、「山の佐伯」と云われる「佐伯氏」(「大伴氏族」)に属する「伴部」ではないかと思われるが、その行動や系譜は不明瞭である。
「大田田根子命」直轄の「大伴氏」は「太田命」や「大枝命」を輩出し、「紀伊国」の開拓に従事する事になる。「大伴氏」は多くの「伴部」を率いる氏族である。例えば土師部、陶部、鍛冶部、砥部、鏡造部、玉造部、馬飼部・・・など多種多様な技能労働力を抱えた「倭国」最強の開拓集団であり、「倭朝廷」を支える強力氏族である。
[大伴氏の系譜]
天日方奇日方命-阿多津奇根命ー建飯勝命 |・建飯賀田須命
(八咫烏) (加茂氏) | |・豊御気主命ー大御気主命-| →伊勢鴨部
神武大王 |ー建甕槌命--| |・阿多賀田須命
| | |・大御気持命ー |・大枝命→大枝氏 →磯部
|-----出雲神門臣ーー出雲沙麻奈姫 |・太田命→太田氏 →和邇部
|
|・伊須気依姫
|・磯城倉下ーー出雲臣ーーーー出雲鞍山祇姫
|
大山咋命ーーーー大田田根子命 |ー大部主命ー大友主命ー大伴豊日命ー大伴武日命→大伴氏
| |
|-----大御気持命
|
鴨美良姫ーーーー鴨美気姫
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(3)・3 朝廷の重臣「土師氏」
「土師氏」は「陶津耳族」と「葛城族」が交わり、「造墓専門集団」と「埴輪製作専門集団」を輩出した。「造墓専門集団」は巨大墳墓の造営をし、羽曳野市藤井寺、道明寺一帯を本拠地とした。「埴輪製作専門集団」は狭山一帯で埴輪や甕棺を製作し陶邑を拓き本拠地とした。古墳造営や葬送儀礼に関わった「土師部」(曲部)である。
古墳造営や葬送儀礼は、石棺製作に関わる「額田部」(「石撞」、「馬飼い」)や墳墓の土固め(版築)をする「和邇部」、種々の労役に従事する「伴部」、葬送祭事の設営、掃除、保守など墓守を行う「掃守部」(「神守」)、葬送儀礼を進行する「忌部」、葬送祭事を主催する「神主」、墳墓の位置方位など築造条件を卜定する「卜部」、「大王家」の墳墓管理を行う「和珥氏」など多くの部族や渡来工人集団などが関わって構築され、進化した。この「土師部」の集団が四世紀末から六世紀前までの150年間に亘り「古墳文化」を築いた。
当初は土師器、埴輪の製作や墳墓の造営や葬送儀礼に関する労役に従事する「土師部」(品部)であったが十一代「垂仁大王」の代に「土師氏」の祖と云われる「野見宿禰」が土師職を賜り、曽孫の「土師身臣」が十六代「仁徳大王」から「土師連」を与えられ、後に「土師宿禰」を与えられて「土師氏」を名乗る様になった氏族である。
「陶津耳族」の「葛木剣根命」は「大王家」に取入るために「葛城族」の「天忍男命」の娘を五代「孝昭大王」に嫁がせ、「大王家」の墳墓の造営を一手に引き受ける様になった。「天忍男命」の父「天村雲命」は「朝廷」から北陸、紀伊半島及び以東の国の開拓を命じられ、領地葛城の地を「剣根命」に国譲りをして但馬国へ移住した。子息の「天忍男命」は河内国和泉を開拓し狭山の豪族となる。「剣根命」は「天忍男命」の系属に妃を送り込み「造墓集団」を取り込み、「天忍男命」の系属を支配下に置いた。
「天村雲命」が但馬国へ派遣された理由は、但馬国は古来から新羅の渡来工人が入植席巻する強力豪族が支配する国であり、水銀採掘はもちろんだが「額田部石撞族」の巨石切り出し、加工技術や「額田部馬飼い族」の巨石運搬技術を導入すべく、「天村雲命」を派遣し、但馬国を支配下に治める事を目論んだと考える。
「造墓専門集団」を率いる「奥津世襲命」
「天忍男命」の子息「奥津世襲命」は「造墓専門集団」として、「額田部石撞族」(巨石の切り出しや加工をする曲部)や「額田部馬飼い族」(巨石運搬に従事する曲部)や「大伴氏族」(労役に従事する伴部)などを率いて、羽曳野の藤井寺や道明寺一帯を本拠地として巨大墳墓の造営に当たった。
土固めされた古代墳墓と王家や豪族の奥津城の雄姿
古代では墳墓のことを「奥津城」(おくつき)と云った。「奥津」とは霊安所の意で、「城」とは四辺を囲んだ場=霊柩の意であり、被葬者の霊を安置する場所つまり墓室や墳墓のことである。「奥津世襲命」は「大王家」の巨大墳墓の造営を生業とした「土師氏」の祖である。
「埴輪製作専門集団」を率いる「建額赤彦命」
「天忍男命」のもう一人の子息「建額赤彦命」(「葛木彦命」)は御霊の鎮まる墓所を永遠なる世界として壮大な墓標演出をする「埴輪製作専門集団」として、狭山丘陵一帯を本拠地として多くの「伴部」を率いて陶器製作に加えて埴輪製作で和泉陶邑を拓き、「埴輪」づくりを生業とした「土師氏」の祖である。
埴輪製作集団がつくる大量の埴輪と巨大墳墓の荘厳な埴輪列
「埴輪」は「野見宿禰」が殉死者の代用として発明したとされているが、後世につくられた伝説である。「野見宿禰」が存命した時代(十一代「垂仁大王」の代)と大きくずれているため、「天忍男命」一族が発明したものと思われる。「埴輪」は葬送儀礼の埴輪制度が廃止される八世紀まで「古墳文化」の花形であった。
「大王家」の墳墓管理を司る「和珥氏」を生んだ「世襲足姫命」
五代「孝昭大王」に嫁いだ「世襲足姫命」は「天足国押命」を儲け、叔父の「天忍男命」の孫娘「葛木宇那姫」と交わり「和珥彦押命」を儲けるが、「和珥彦押命」は「和珥氏」の姓と「大王家」の墳墓管理を司る役職を賜った。天孫族系の「和珥氏」は和泉陶邑を本拠地とした。
墳墓に版築を導入した「阿田賀田須命」
春日県の和爾邑の赤坂に「阿田賀田須命」を祖先とする「和邇部」(和仁古)が居留し、和爾坐赤坂彦神社に祖先を祀り、赤土の産地赤坂を「和邇部」の本拠地とした。
和爾坐赤坂比古神社には製塩の神・阿田賀田須命と結びついた和爾赤坂の豪族の氏神が祀られている
海人「加茂氏族」係累の「紀の大伴氏族」の「阿田賀田須命」がなぜ造墓集団の「和邇部」の祖先として祀られたのか?
「磯部」や「和邇部」を輩出した「紀の大伴氏族」の「阿田賀田須命」は、墳墓の土固めに必要な版築工法(塩で粘土の水分を除き土固めをする)を発明した「磯部」が造営する塩田を多方面(伊勢、紀の太田、播磨の赤穂、、吉備の児島)に展開し、塩の生産量を拡大し、版築用資材として赤土産地に供給した。また産地の赤土を「埴輪製作専門集団」に供給する基地とした和爾邑を、紀の大伴氏族系の「和邇氏」が本拠地とした。
版築や埴輪製作は墳墓築造現場の近辺で採材、製作する事が基本で、墳墓が造営される国や土地において赤土や塩が産出した土地には赤坂や赤穂、、赤瀬、赤池、赤沼、など赤の付く地名が見られ、そこで赤土採取する部民が「和邇部」(和仁古)と云われ、「製塩集団」の祖神「阿田賀田須命」が赤坂彦神社の祭神として祀られた。吉備国の赤坂にも赤坂彦神社があり、「阿田賀田須命」が祀られている。
天理の和爾邑の赤坂を紀の大伴氏族系の「和邇氏」の拠点として、和泉陶邑を拠点とする天孫族系の「和珥氏」に版築用資材を供給することで「造墓集団」の一族となった。
墳墓群の墓守をした「掃守部」の祖「天忍人命」
「天忍男命」と「天忍人命」は兄弟である。兄の「天忍男命」は娘を「大王家」に嫁がせ、王子「天足国押命」を儲け、弟の「天忍人命」は孫娘「葛木宇那姫」を「天足国押命」に嫁がせ、「和珥彦押命」(「和珥氏」を賜る)を儲ける。兄弟共に「大王家」に妃を送り込み、「天孫族」入りした。兄弟共に天孫族系の「和珥氏」の祖である。
「天忍人命」は異母兄弟の「葛城出石姫」と結ばれ「天登目命」を儲け、娘の「葛木宇那姫」が「天足国押命」に嫁いで「和珥彦押命」を儲けた。「天登目命」は「和珥彦押命」の母方の祖父に当たり、「天忍人命」は曾祖父に当たる。
「葛木剣根命」の孫娘「葛木避姫」が「天登目命」に嫁ぎ、「葛木宇那姫」と「建宇那比命」と「建麻利尼命」と「建斗米命」の四兄弟を儲けた。
「葛木宇那姫」は五代「孝昭大王」妃となり、孫の「和珥彦押命」を儲け、七代「孝霊大王」の代に「和珥氏」を賜り、「大王家」の祖先代々の墳墓群の管理を担った。
「建宇那比命」は笛吹王「若犬甘命」と「櫂子命」を儲け、孫の代に「笛吹連」を賜り葬送儀礼の吹奏楽師を担い、葛木地方に居留した。
「建宇那比命」は「海部氏」の祖とされているが、「海部氏」の系は「天村雲命」と「葛木伊加理姫命」との間に生まれた「御蔭命」(「天忍男命」、「天忍人命」と異母兄弟)の子孫の「建田勢命」の系属が十五代「応神大王」の代に「海部直」の姓を賜って「海部氏」を名乗る様になったもので、「建宇那比命」は「天忍人命」の子孫であり「海部氏」の系ではない。
「建麻利尼命」は「石作連大来」と云う「石作部」(石工集団)を掌握管理し石棺や石室、石廊など調達、製作、造営をし、当初は和泉地方を拠点としたが造墓現場を拠点に展開した。
「建斗米命」は「建多乎利命」を儲け、「建多乎利命」は被葬者の御霊を飾る神服や副葬品や神事の祭服などを司る「神服連」を賜り、「服部部」を掌握管理して神服づくりを行い、造墓現場を拠点に展開した。
この様に「天忍男命」の子孫は墳墓築造から埴輪製作まで墳墓築造、造営を行った氏族であるが、「天忍人命」の子孫は葬送儀礼の設営から造墓や掃除、保守、維持管理など墓守を行う「掃守部」または「神守」と云われる曲部を掌握管理した氏族である。
「土師氏」は「陶族」との関係を深めた「葛城族」の「天村雲命」を祖とする「天忍男命」と「天忍人命」の兄弟とそれぞれの子孫が「大王家」に妃を送り込み、、「大王家」の深部に入り込んで、「モガリ」の様式を含めた葬送儀礼と墳墓の築造を一手に引き受け巨大墳墓の造営をし、「古墳文化」を築き上げた。「朝廷」にとって「大王家」の祖先の御霊を祀ると云う最重要神事を担い、支えた最も信頼の篤い氏族である。
[土師氏の系譜]
|・葛木久多美命ーーーー葛木尾治置姫
葛木剣根命ー| |-----ー建足筒草命ーー建真咋命ーーー諸石宿禰
|・葛木加奈良知姫 |・建額赤彦命 (大海宿禰)
| |(埴輪製作専門集団)
阿比良姫 | ーーーーー- |・奥津世襲命
| | | (造墓専門集団)
| |・天忍男命 |・世襲足姫命
|ーーーーー | (土師氏の祖) |-----ー天足国押命
| |・天忍人命 ⑤孝昭大王 |
| | ▼(掃守氏の祖) |ーーーーー和珥彦押命
天村雲命 |ーーーーーーー天戸目命 | (和珥氏を賜る)
| | | |・葛木宇那姫
| |・葛城出石姫 |ーーーー|・建宇那比命ーー笛吹王ーーーー笛吹連
|ーーーーー| | |・建麻利尼命ーー石作連大来
| |・御蔭命 葛木避姫 |・建田背命ーーー神服連
| | |ーーーーーー建斗米命ー|
葛城伊加里姫 | (尾張の豪族)(尾張氏の祖)|・建多乎利命ー 建諸隅命
| ↓(建田勢命と交代)
|--------笠水彦命ーーーー笠津彦命ーーー建田勢命ーー倭得玉彦命
| (若狭彦命) (若狭国造) ↓(若狭湾航海権譲渡)
伊氷鹿命ーーーー井光姫 (山城国へ赴任)
(吉野丹生族の首) |・磯部
建飯勝命ーーーー建甕槌命ーーーーーー豊御気主命ーーー大御気主命ーー阿田賀田須命ー|(製塩)
(加茂氏族) (磯部氏の祖) |・和邇部
(和邇君の祖) (版築)
※陶津耳族とその子孫 ※吉野丹生族を連れて但馬へ移住した海人葛城族とその子孫
「倭朝廷」の「国づくり」は強力な四大氏族「中臣氏」、「物部氏」、「大伴氏」、「土師氏」に支えられ成し遂げられた。中でも「朝廷」の土性骨となったのは「中臣氏」で、大和国家の根幹を築いた功績は大きい。「中臣氏考」について、別途論考を投稿する予定。
(3)・1 朝廷の重臣「物部氏」
「大王家」の血統(祖先の御霊)を正当化するために「大王家」の聖地「三輪山」に代々の大物主(「大王家」の血統を継承する者)を祀り祭事を行い、子孫代々に亘り家系を伝承する神主の役割を「物部氏」(魂部氏)が担った。
「大王家」先祖代々の御霊が聖地「三輪山」に祀られた。
「神武大王」の正妃「蹈鞴五十鈴姫命」の父「鴨族」四代目大物主の「積葉八重事代主命」の先祖や大物主(「鴨族」の血統を継承する者)も「三輪山」に祀られた。
「神武大王」の嫡子「宇摩志麻遅命」が三島の味舌に住んでいたが、三輪に呼ばれ、初代当主「物部氏」の姓を賜った。「物部氏」は代々「食国政申大夫」の役職と領地を賜り、「三輪山」の聖地に「大王家」の大物主を祀り祭事を行う神主の役割を担うものである。「物部氏」二代当主「彦湯坐命」は「紀ノ国」を賜り、三代当主「出石心大臣命」は「但馬国」を賜った。
「紀ノ国」は縄文古来からの先住民「鴨族」や「丹生族」や「加茂氏族」(「神武東征」の八咫烏を担った功績で「加茂氏」を賜った)や一世紀頃、新羅の渡来工人集団を率いて入植した「大田田根子命」が交わって、「伴部」や「鴨部」や渡来工人集団を抱える「大伴氏族」や「加茂氏族」や「紀氏族」などの豪族が居住し、丹土、丹鉄採掘や鋳鍛冶で栄えた国で、「朝廷」が最初に「御食国」とした「朝廷」の直轄地である。
「但馬国」は縄文古来からの先住民「鴨族」や海人「安曇族」、「鳥取族」や新羅の渡来工人集団「額田部族」が居留する国で、翡翠採掘や玉造りや水銀採掘や鉄鍛冶で栄えた。一世紀~二世紀頃、「大王家」係累の海人「葛城族」の「天村雲命」が日本海の交易ルートの開拓のため但馬の地に派遣され、出石の豪族「額田部湯桁命」(「鳥取族」に率いられ入植した鋳鍛冶工人集団の一族)と交わり、「但馬国」を治める豪族となった。「朝廷」は「物部氏」三代当主「出石心大臣命」に「食国政申大夫」の役職と「但馬国」を授け直轄地とし、二国目の「御食国」となった国である。
二世紀頃、「朝廷」は「鋳鍛冶文化」を築いた「彦伊賀都命」(伊賀国造)が治める伊賀の地を「御食国」とするために、「物部氏」四代当主「大水口宿禰命」に「食国政申大夫」の役職と「伊賀国」を与えて、「朝廷」の直轄地とした。
伊賀国の領主となった「大水口宿禰命」は、「鋳鍛冶族」が魂を傾注して鋳造した最初の一振りの剣を「鋳鍛冶族の祖先の魂が宿る剣」とみなし「布都御魂神」と銘打って、「物部氏」が「三輪神主家」の御社として建立した「石上神宮」に奉納した。
三世紀頃、「物部氏」は新羅国の鋳鍛冶工人集団の一族の「額田部大加賀美命」や「額田部築箪命」を蒲生の地に入植させ銅鐸や銅鏡を鋳造させ、「鋳鍛冶技術」の進展は頂点を極めた。蒲生郷は後の世まで「鋳物師の里」として栄えるが、天祖「天照大御神」の御魂代としての「神鏡」はこの「鋳物師の里」で創られ、「倭朝廷」の直轄地である諸国において「天照大御神」の御魂代としての「神鏡」を祀らせた。その「神鏡」を祀った神社を「元伊勢神社」又は「元伊勢神宮」と云う。
更に「物部氏」は「大田田根子命」の子孫で「中央の大伴氏」の祖といわれる「大部主命」が輩出した「大伴氏」や「佐伯氏」などの豪族が築いた国を掌握管理し、「朝廷」を支える強力氏族となった。
「賀茂剣根命」に国譲りした「天村雲命」は「吉野丹生族」の首「伊氷鹿命」を帯同して「但馬国」若狭へ移住し、その子孫は「吉野丹生族」と交わり若狭の豪族「笠水彦命」を輩出し、若狭国造「若狭彦命」を拝命し舞鶴を本拠地とし「海部氏」の祖となる。一方、子孫の一枝は伊勢湾岸の開拓を担う「天村雲命」係累の「加茂氏族」の「天忍人命」と交わり、「尾張氏」の祖「天戸目命」を輩出し、「天戸目命」は「葛木剣根命」の孫娘「葛木避姫」と交わり、子孫の「建田小利命」が愛知の熱田に本拠を置き「尾張国」の豪族となる。「朝廷」は領地として「但馬国」を「物部氏」三代当主「出石心大臣命」に、「淡海国」から「尾張国」を「物部氏」四代当主「大水口宿禰命」に与えて掌握管理させ「朝廷」の直轄地とした。特に「淡海国」彦根・稲部に展開する「鋳鍛冶族」に睨み(にらみ)を利かせた。
この様に、「物部氏」は全国に広がる「御食国」を掌握管理する様になり、全国津々浦々縦横無尽に物質を動かす権限を得て、まるで現代の総合商社の如く存在で、十数代に亘って隆盛を極めた氏族である。
[物部氏の系譜]
高倉下命ーーー天津彦根命ーーーーー天御影命ーーーー彦伊賀都命ーーーーーー坂戸由良姫
(葛城族) (鋳鍛冶族祭神)(鋳鍛冶族) |(水口酒人)
活目五十呉桃ー日下部馬津久流久美ー阿野姫 |
| |ーーー大峰大尼命
|・安日彦命ー安日彦命の娘 |ーーーーーー神日子命 |(坂戸物部・水口酒人)
| | | (阿刀部・物部氏の海部)|
|・三炊屋姫 |--------味堯田命 |・大矢口宿禰
| | (三島県主) |
|----①宇摩志麻遅命ーーー②彦湯支命ー|・③出石心大臣命ーー|・④大水口宿禰ーーー
| (三輪) (紀ノ国) | (但馬国) (尾張国)
神武大王 |・大禰命 |・木食命
| | (三河国造)
|・出雲醜大臣命ーーーーー|・六見命
(磯城県主) | (屯倉の管理)
|・三見命
(漆部の管理)
ーー⑤大綜杵命ーー⑥内色杵男命--⑦伊香色男命ーー⑧十市根命
(伊賀国) (山城国) (淡海国木ノ本)(倭国十市)
(3)・2 朝廷の重臣「大伴氏」
古代史上最大の知恵者「意富族」の鉱山師「大田田根子命」は、筑紫から大分に移動して丹土や丹鉄や石灰石の採掘をしていた「大分大伴氏族」を日本列島の東に移動させ紀ノ国大伴郷に入植させて、紀ノ国に一大勢力を築いた。
紀ノ国に「鋳鍛冶文化」を築いた「大田田根子命」はその底知れぬエネルギーを畏れられ、「朝廷」に抱えられる身となった。「大王家」の祖先を祀る三輪山の神官(「三輪神主家」)を賜り、子孫は「大王家」と血縁関係にある「出雲土師族」(「出雲神門臣」系)と交わり、「紀の大伴氏」と云われる「太田氏」や「大枝氏」を輩出する。
「大田田根子命」の妃の兄「阿多津奇根命」の子孫の「加茂氏族」は「出雲土師族」(「出雲神門臣」系)と交わり、「鴨部」や「和邇部」(「和仁古」)を輩出する。その「鴨部」や「和仁古」は全国に展開する事になる。
一方、「大王家」と親戚関係にある「出雲土師族」(「出雲臣」系)と交わり、「中央の大伴氏」と云われる「大伴氏」や「多田氏」(「大田田根子命」を祭祀する氏族)や「鴨積氏」(三輪神社を祭祀する氏族)を輩出する。
「朝廷」直轄の「大伴氏族」は「御食国」(「朝廷」の直轄地)に配置され、全国を飛び回る根無し草の様なものであるが、豊後、安芸、伊予、讃岐、阿波、播磨などに拠点を置き、巨石や巨木や鉱脈を求めて国土中を移動する民族で、砂鉄を求めて山陰地方の山地を駆け回る「山窩」(さんか)は「野の佐伯」、「山の佐伯」と云われる「佐伯氏」(「大伴氏族」)に属する「伴部」ではないかと思われるが、その行動や系譜は不明瞭である。
「大田田根子命」直轄の「大伴氏」は「太田命」や「大枝命」を輩出し、「紀伊国」の開拓に従事する事になる。「大伴氏」は多くの「伴部」を率いる氏族である。例えば土師部、陶部、鍛冶部、砥部、鏡造部、玉造部、馬飼部・・・など多種多様な技能労働力を抱えた「倭国」最強の開拓集団であり、「倭朝廷」を支える強力氏族である。
[大伴氏の系譜]
天日方奇日方命-阿多津奇根命ー建飯勝命 |・建飯賀田須命
(八咫烏) (加茂氏) | |・豊御気主命ー大御気主命-| →伊勢鴨部
神武大王 |ー建甕槌命--| |・阿多賀田須命
| | |・大御気持命ー |・大枝命→大枝氏 →磯部
|-----出雲神門臣ーー出雲沙麻奈姫 |・太田命→太田氏 →和邇部
|
|・伊須気依姫
|・磯城倉下ーー出雲臣ーーーー出雲鞍山祇姫
|
大山咋命ーーーー大田田根子命 |ー大部主命ー大友主命ー大伴豊日命ー大伴武日命→大伴氏
| |
|-----大御気持命
|
鴨美良姫ーーーー鴨美気姫
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(3)・3 朝廷の重臣「土師氏」
「土師氏」は「陶津耳族」と「葛城族」が交わり、「造墓専門集団」と「埴輪製作専門集団」を輩出した。「造墓専門集団」は巨大墳墓の造営をし、羽曳野市藤井寺、道明寺一帯を本拠地とした。「埴輪製作専門集団」は狭山一帯で埴輪や甕棺を製作し陶邑を拓き本拠地とした。古墳造営や葬送儀礼に関わった「土師部」(曲部)である。
古墳造営や葬送儀礼は、石棺製作に関わる「額田部」(「石撞」、「馬飼い」)や墳墓の土固め(版築)をする「和邇部」、種々の労役に従事する「伴部」、葬送祭事の設営、掃除、保守など墓守を行う「掃守部」(「神守」)、葬送儀礼を進行する「忌部」、葬送祭事を主催する「神主」、墳墓の位置方位など築造条件を卜定する「卜部」、「大王家」の墳墓管理を行う「和珥氏」など多くの部族や渡来工人集団などが関わって構築され、進化した。この「土師部」の集団が四世紀末から六世紀前までの150年間に亘り「古墳文化」を築いた。
当初は土師器、埴輪の製作や墳墓の造営や葬送儀礼に関する労役に従事する「土師部」(品部)であったが十一代「垂仁大王」の代に「土師氏」の祖と云われる「野見宿禰」が土師職を賜り、曽孫の「土師身臣」が十六代「仁徳大王」から「土師連」を与えられ、後に「土師宿禰」を与えられて「土師氏」を名乗る様になった氏族である。
「陶津耳族」の「葛木剣根命」は「大王家」に取入るために「葛城族」の「天忍男命」の娘を五代「孝昭大王」に嫁がせ、「大王家」の墳墓の造営を一手に引き受ける様になった。「天忍男命」の父「天村雲命」は「朝廷」から北陸、紀伊半島及び以東の国の開拓を命じられ、領地葛城の地を「剣根命」に国譲りをして但馬国へ移住した。子息の「天忍男命」は河内国和泉を開拓し狭山の豪族となる。「剣根命」は「天忍男命」の系属に妃を送り込み「造墓集団」を取り込み、「天忍男命」の系属を支配下に置いた。
「天村雲命」が但馬国へ派遣された理由は、但馬国は古来から新羅の渡来工人が入植席巻する強力豪族が支配する国であり、水銀採掘はもちろんだが「額田部石撞族」の巨石切り出し、加工技術や「額田部馬飼い族」の巨石運搬技術を導入すべく、「天村雲命」を派遣し、但馬国を支配下に治める事を目論んだと考える。
「造墓専門集団」を率いる「奥津世襲命」
「天忍男命」の子息「奥津世襲命」は「造墓専門集団」として、「額田部石撞族」(巨石の切り出しや加工をする曲部)や「額田部馬飼い族」(巨石運搬に従事する曲部)や「大伴氏族」(労役に従事する伴部)などを率いて、羽曳野の藤井寺や道明寺一帯を本拠地として巨大墳墓の造営に当たった。
土固めされた古代墳墓と王家や豪族の奥津城の雄姿
古代では墳墓のことを「奥津城」(おくつき)と云った。「奥津」とは霊安所の意で、「城」とは四辺を囲んだ場=霊柩の意であり、被葬者の霊を安置する場所つまり墓室や墳墓のことである。「奥津世襲命」は「大王家」の巨大墳墓の造営を生業とした「土師氏」の祖である。
「埴輪製作専門集団」を率いる「建額赤彦命」
「天忍男命」のもう一人の子息「建額赤彦命」(「葛木彦命」)は御霊の鎮まる墓所を永遠なる世界として壮大な墓標演出をする「埴輪製作専門集団」として、狭山丘陵一帯を本拠地として多くの「伴部」を率いて陶器製作に加えて埴輪製作で和泉陶邑を拓き、「埴輪」づくりを生業とした「土師氏」の祖である。
埴輪製作集団がつくる大量の埴輪と巨大墳墓の荘厳な埴輪列
「埴輪」は「野見宿禰」が殉死者の代用として発明したとされているが、後世につくられた伝説である。「野見宿禰」が存命した時代(十一代「垂仁大王」の代)と大きくずれているため、「天忍男命」一族が発明したものと思われる。「埴輪」は葬送儀礼の埴輪制度が廃止される八世紀まで「古墳文化」の花形であった。
「大王家」の墳墓管理を司る「和珥氏」を生んだ「世襲足姫命」
五代「孝昭大王」に嫁いだ「世襲足姫命」は「天足国押命」を儲け、叔父の「天忍男命」の孫娘「葛木宇那姫」と交わり「和珥彦押命」を儲けるが、「和珥彦押命」は「和珥氏」の姓と「大王家」の墳墓管理を司る役職を賜った。天孫族系の「和珥氏」は和泉陶邑を本拠地とした。
墳墓に版築を導入した「阿田賀田須命」
春日県の和爾邑の赤坂に「阿田賀田須命」を祖先とする「和邇部」(和仁古)が居留し、和爾坐赤坂彦神社に祖先を祀り、赤土の産地赤坂を「和邇部」の本拠地とした。
和爾坐赤坂比古神社には製塩の神・阿田賀田須命と結びついた和爾赤坂の豪族の氏神が祀られている
海人「加茂氏族」係累の「紀の大伴氏族」の「阿田賀田須命」がなぜ造墓集団の「和邇部」の祖先として祀られたのか?
「磯部」や「和邇部」を輩出した「紀の大伴氏族」の「阿田賀田須命」は、墳墓の土固めに必要な版築工法(塩で粘土の水分を除き土固めをする)を発明した「磯部」が造営する塩田を多方面(伊勢、紀の太田、播磨の赤穂、、吉備の児島)に展開し、塩の生産量を拡大し、版築用資材として赤土産地に供給した。また産地の赤土を「埴輪製作専門集団」に供給する基地とした和爾邑を、紀の大伴氏族系の「和邇氏」が本拠地とした。
版築や埴輪製作は墳墓築造現場の近辺で採材、製作する事が基本で、墳墓が造営される国や土地において赤土や塩が産出した土地には赤坂や赤穂、、赤瀬、赤池、赤沼、など赤の付く地名が見られ、そこで赤土採取する部民が「和邇部」(和仁古)と云われ、「製塩集団」の祖神「阿田賀田須命」が赤坂彦神社の祭神として祀られた。吉備国の赤坂にも赤坂彦神社があり、「阿田賀田須命」が祀られている。
天理の和爾邑の赤坂を紀の大伴氏族系の「和邇氏」の拠点として、和泉陶邑を拠点とする天孫族系の「和珥氏」に版築用資材を供給することで「造墓集団」の一族となった。
墳墓群の墓守をした「掃守部」の祖「天忍人命」
「天忍男命」と「天忍人命」は兄弟である。兄の「天忍男命」は娘を「大王家」に嫁がせ、王子「天足国押命」を儲け、弟の「天忍人命」は孫娘「葛木宇那姫」を「天足国押命」に嫁がせ、「和珥彦押命」(「和珥氏」を賜る)を儲ける。兄弟共に「大王家」に妃を送り込み、「天孫族」入りした。兄弟共に天孫族系の「和珥氏」の祖である。
「天忍人命」は異母兄弟の「葛城出石姫」と結ばれ「天登目命」を儲け、娘の「葛木宇那姫」が「天足国押命」に嫁いで「和珥彦押命」を儲けた。「天登目命」は「和珥彦押命」の母方の祖父に当たり、「天忍人命」は曾祖父に当たる。
「葛木剣根命」の孫娘「葛木避姫」が「天登目命」に嫁ぎ、「葛木宇那姫」と「建宇那比命」と「建麻利尼命」と「建斗米命」の四兄弟を儲けた。
「葛木宇那姫」は五代「孝昭大王」妃となり、孫の「和珥彦押命」を儲け、七代「孝霊大王」の代に「和珥氏」を賜り、「大王家」の祖先代々の墳墓群の管理を担った。
「建宇那比命」は笛吹王「若犬甘命」と「櫂子命」を儲け、孫の代に「笛吹連」を賜り葬送儀礼の吹奏楽師を担い、葛木地方に居留した。
「建宇那比命」は「海部氏」の祖とされているが、「海部氏」の系は「天村雲命」と「葛木伊加理姫命」との間に生まれた「御蔭命」(「天忍男命」、「天忍人命」と異母兄弟)の子孫の「建田勢命」の系属が十五代「応神大王」の代に「海部直」の姓を賜って「海部氏」を名乗る様になったもので、「建宇那比命」は「天忍人命」の子孫であり「海部氏」の系ではない。
「建麻利尼命」は「石作連大来」と云う「石作部」(石工集団)を掌握管理し石棺や石室、石廊など調達、製作、造営をし、当初は和泉地方を拠点としたが造墓現場を拠点に展開した。
「建斗米命」は「建多乎利命」を儲け、「建多乎利命」は被葬者の御霊を飾る神服や副葬品や神事の祭服などを司る「神服連」を賜り、「服部部」を掌握管理して神服づくりを行い、造墓現場を拠点に展開した。
この様に「天忍男命」の子孫は墳墓築造から埴輪製作まで墳墓築造、造営を行った氏族であるが、「天忍人命」の子孫は葬送儀礼の設営から造墓や掃除、保守、維持管理など墓守を行う「掃守部」または「神守」と云われる曲部を掌握管理した氏族である。
「土師氏」は「陶族」との関係を深めた「葛城族」の「天村雲命」を祖とする「天忍男命」と「天忍人命」の兄弟とそれぞれの子孫が「大王家」に妃を送り込み、、「大王家」の深部に入り込んで、「モガリ」の様式を含めた葬送儀礼と墳墓の築造を一手に引き受け巨大墳墓の造営をし、「古墳文化」を築き上げた。「朝廷」にとって「大王家」の祖先の御霊を祀ると云う最重要神事を担い、支えた最も信頼の篤い氏族である。
[土師氏の系譜]
|・葛木久多美命ーーーー葛木尾治置姫
葛木剣根命ー| |-----ー建足筒草命ーー建真咋命ーーー諸石宿禰
|・葛木加奈良知姫 |・建額赤彦命 (大海宿禰)
| |(埴輪製作専門集団)
阿比良姫 | ーーーーー- |・奥津世襲命
| | | (造墓専門集団)
| |・天忍男命 |・世襲足姫命
|ーーーーー | (土師氏の祖) |-----ー天足国押命
| |・天忍人命 ⑤孝昭大王 |
| | ▼(掃守氏の祖) |ーーーーー和珥彦押命
天村雲命 |ーーーーーーー天戸目命 | (和珥氏を賜る)
| | | |・葛木宇那姫
| |・葛城出石姫 |ーーーー|・建宇那比命ーー笛吹王ーーーー笛吹連
|ーーーーー| | |・建麻利尼命ーー石作連大来
| |・御蔭命 葛木避姫 |・建田背命ーーー神服連
| | |ーーーーーー建斗米命ー|
葛城伊加里姫 | (尾張の豪族)(尾張氏の祖)|・建多乎利命ー 建諸隅命
| ↓(建田勢命と交代)
|--------笠水彦命ーーーー笠津彦命ーーー建田勢命ーー倭得玉彦命
| (若狭彦命) (若狭国造) ↓(若狭湾航海権譲渡)
伊氷鹿命ーーーー井光姫 (山城国へ赴任)
(吉野丹生族の首) |・磯部
建飯勝命ーーーー建甕槌命ーーーーーー豊御気主命ーーー大御気主命ーー阿田賀田須命ー|(製塩)
(加茂氏族) (磯部氏の祖) |・和邇部
(和邇君の祖) (版築)
※陶津耳族とその子孫 ※吉野丹生族を連れて但馬へ移住した海人葛城族とその子孫
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