好々彦の神代文化考

神話と系譜と足跡を元に”古代人の生き様”を読み解き、新しい古代史の視点を提案する。きっとあなたの古代史観が変わる!                                                              

外来文化と技術が拓いた日本の国  

(5) 朝鮮半島から伝播した「製鉄文化」

 人類はどの様にして「鉄」を入手したのか? ①地球に衝突した「隕石」の内、鉄分を含んだ「隕鉄」をそのまま「原料鉄」として使う方法。 ②鉄鉱石を精錬し「原料鉄」を得る方法。の二つの方法が考えられる。

 人類が最初に出会った「鉄」「隕鉄」である。「隕鉄」から「鉄」をつくるには、炉に「隕鉄」を入れ、火吹き筒などで高温を確保しながら長時間かけて加熱する熱間鍛造と云う方法による。

 日本列島に於いて地球上に降ってきた「隕石」を最初に拾ったのは縄文人である。この「隕石」と云われる石凝(いこり)の内、「鉄」を含んだ「隕鉄」と云われる石凝の存在を知り、この石凝を高温で加熱すると液状になる事を知り、「星」から降ってきた石凝「石」から「鉄」が生まれると云う不思議な「霊力」を持った「神石」であると信じられた。天から降ってきた「鉄」への信仰は古くから根強く存在し、神社に奉納され「ご神体」として崇められた。

 この「隕鉄」「星鉄」「天降り鉄」「隕星」などと呼ばれ、拾った縄文人「星」の銘を冠して「神」として崇められた。葛城地方「星鉄」を拾った縄文人「葛城赤星命」と称し、「星鉄」「朝廷」に献上した事から「天津赤星命」を賜った。また「常陸国」香取地方で拾った縄文人「甕星香香背男命」と称し「大甕神社」祭神として祀られた。

 「隕鉄」は鉄とニッケルの合金で溶ける温度が異なり、当時の「火焚き技術」では溶かす事は不可能であったが、三世紀頃「建甕槌命」の「窯焚き技術」の発明により「隕鉄」の鍛冶が可能になった。

 「赤星」が拾って「朝廷」に献上した「隕鉄」は三世紀頃、「伊賀国」で「鋳鍛冶族」によって「布都御魂剣」と銘打った「神剣」に生まれ変わり、石上神宮に奉納された。「甕星」が拾って「大甕神社」に奉納した「隕鉄」は三世紀末頃、「常陸国」の香取地方に派遣された「中臣氏」の「神聞勝命」と「鋳鍛冶族」によって「経津御魂剣」と銘打った「神剣」に生まれ変わり、石上神宮に奉納された。

 鉄隕石A縮小_convert_20161005154444 布都御魂剣記録縮小4_convert_20161019143850

 「星鉄」と云われる「隕鉄」(左)と石上神宮の禁足地に祀られている「布都御魂剣」の発掘記録(右)   右図出典;藤井稔著「石上神宮の七支刀と菅正友」(古川こ弘文館)

 この事により葛城や香取の地は「製鉄」の聖地として、この地を基点として製鉄地開拓が行われ、「製鉄文化」の花が開いた。 

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 このページでは「古代製鉄」の歴史(主として「古代鉄素材」と「古代鋳鍛冶法」の歴史)について考察する。前五世紀~前三世紀頃(縄文時代~弥生時代初期)、日本にはまだ「製鉄の技術」はなかった。ツングース(匈奴)から高句麗を経由、朝鮮半島南東部の辰韓、弁韓(後の新羅)に「鉄器文化」が持ち込まれた。

 新羅に伝播した鉄器は狩猟や武器として使われる「鉄斧」などが中心で、この「鉄斧」を半島の生活に合う様に農耕用の鋤や鍬などに「鍛造鍛冶技術」でリメイクされる様になった。

 この原料鉄としての「鉄斧」とリメイクする「鍛造鍛冶技術」が新羅から隠岐を経由、日本海沿岸の「因幡国」鳥取地方に伝わり、農耕用の鋤や鍬や玉造用の錐や造船用の工具などにリメイクされた。この「鉄器文化」が新羅から「因幡国」鳥取地方へ伝播した事が日本の「製鉄文化」のあけぼのとなる。

 前一世紀~一世紀頃(弥生時代)、「新羅国」が「鉄」を産する「伽羅国」を併合し、「鉄資源」と「鋳鍛冶技術」が相まって新しい「製鉄技術」が産まれた。「鉄鋌」と云われる短冊状の製鉄専用原料鉄を元に「鋳鍛冶」や「鋳造→鍛造鍛冶」の方法で、炭素を多く含み柔らかい鉄製品の農具や武器・武具がつくられた。

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  原料鉄として利用した「鉄斧」(左)と製鉄専用原料鉄の「鉄鋌」(右)(大成洞29号、2号古墳出  土ー宗像市HPより)

 二世紀頃(弥生時代)、「伽羅国」で「原料鉄」(鉄鋌、くず鉄など)と「硅石」を炉に入れ燃焼させ脱炭、脱滓を行う「溶融精錬法」で得られた粗鋼を鋳造して鋳鋼を得る「鋳鍛冶技術」で炭素を多く含み柔らかい鉄の鋳造剣(七支刀は鋳造剣と云われている)や農具がつくられた。

 「伽羅国」の「意富族」によって伽羅国金官の津と筑紫基肄間で交易され「紀の国」に伝わり、さらに日本の各地に伝播した最初の「製鉄文化」と云える。

 三世紀後半頃、「建甕槌命」の炭化焼成法と云う画期的な「窯焚き技術」の発明と「彦伊賀都命」による伊賀土と云う「耐火土」の発見と「伽羅国」から伝播した新しい「鋳鍛冶技術」が相まって、原料鉄は鉄鉱石から精錬が出来る様になり、しかも脱炭率の高い硬い「鉄」が得られる日本で初めての製鉄技法が開発された。

 赤鉄鉱や磁鉄鉱の「原料鉄」に「石灰石」と「炭」を窯に入れ「溶融精錬」し、「鍛造鍛冶」を行う技法で、炭で脱炭して炭素含有量の少ない「硬い鉄」(鋼鉄)が得られるため、あの切れ味鋭い「日本刀」が創られる様になった。これを契機に三世紀以降製鉄技術が向上し、生産量が飛躍的に増えていった。

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  原料鉄の磁鉄鉱(左)と赤鉄鉱(右)ー出展:IPA「教育用画像素材集サイト」より
 古代製鉄法
  古代製鉄法→炉に「原料鉄」と「石灰石」と「炭」を入れ蹈鞴で風を送り込み高温で燃焼させ精錬する。

 朝鮮半島から伝播した古代製鉄法は「製鉄文化」を形成し、五回に亘る大波となって日本列島に打ち寄せた。

(5)・1 第一波「製鉄文化」

 前三世紀頃、縄文時代から弥生時代にかけて、ツングース(匈奴)の「鉄器文化」「鳥取族」により斯盧(後の新羅)から隠岐を経由して鳥取に、技術工人集団の長「国押鳥耳命」率いる「額田毘道男」を祖とする「額田部角凝魂」鍛冶技術工人)によって伝えられ、第一次「製鉄文化」が始まった。

 「額田部角凝魂」は交易で入手したツングース(匈奴)から伝播した鉄斧や鉄鑿(てつのみー丸太を刳り抜いたり、板を造ったり、石を穿ったりするノミ)などの鉄器そのものを「原料鉄」として「鍛造鍛冶」により農耕用の鋤や鍬や造船用の鑿(のみ)や錐(きり)などの木工具や玉造用の石を穿つ錐などにリメイクして、その地方に合った新しい用途に造り替えた。

 又、この頃「出雲鴨族」出雲地方に持ち込んだ銅剣銅鉾などを「銅原料」として儀礼用の幅広銅剣銅鉾銅鐸リメイクして日本固有の「青銅器文化」を築いた。後の世、この幅広銅剣銅鉾銅鐸は、「鉄鋌」「原料鉄」として流通した如く、「原料銅」として西日本各地に流通した。

(5)・2 第二波「製鉄文化」

 二世紀前後(弥生時代後期)の三韓時代の朝鮮半島南部は西に馬韓、中央に弁韓、東に辰韓が在り、弁韓の南には小国のが、辰韓の北には(わい)が在り、弁韓辰韓「鉄」を産した。『国は「鉄」を出す。馬韓は皆欲しいままに「鉄」を取った。古代中国の市場での貨幣取引の如く「鉄」を用いた』と「魏志韓伝」に記述されている。

 『皆「鉄」を取りに行った』と云っても、この時代どこの国も未だ「製鉄技術」を持っていない(持っていないと云うのが定説である。)とすれば、赤土鉄鉱石などの「原料鉄」だけを求めるはずがない。弁韓辰韓には既に「鉄」「製鉄技術」があり「製鉄」が行われ、「鉄製品」が造られていたと見るべきで、この「鉄製品」こそが貨幣取引の如く、交易の材料とされた「鉄鋌」であると考えられる。

辰韓には「鋳鍛冶族」額田部族)の祖人、弁韓には「山師族」の祖人が居留しており、額田部族の祖人の「鋳鍛冶技術」弁韓の祖人が採掘する「鉄素材」「薪炭」で以って炭素含有量が多く柔らかい低質の「銑鉄」(製鉄専用原料鉄)としての延べ板状の「鉄鋌」が生産された。この「製品鉄」を朝鮮半島のを通じて九州の筑紫間で「意富族」が盛んに交易をしていたと考える。

 二世紀頃(弥生時代中期)、その「意富族」山師族「大田田根子命」辰韓(後の新羅)の製鉄工人集団を連れて、「鋳鍛冶技術」「原料鉄」「鉄鋌」を携えて九州の筑紫基肄に渡来し、さらに「紀の国」鳥取郷に入植した。

 この製鉄工人集団は「額田部石凝姥命」(鋳鍛冶族の祖神)、「天麻比止都禰命」(薪神)、「天戸間見命」(砥磨神)の三神で合わせて「別雷神」と云われた。入植先の筑紫基肄や「紀の国」で弁韓から輸入した「鉄鋌」を「原料鉄」として「炭火」で高温鋳造した「鋳鉄」を「鍛造鍛冶」で農具や武具を造った。

 さらに「紀の国」に入植した「額田部石凝姥命」の子孫の「天湯河桁命」「額田部湯坐命」「紀の国」丹鉄赤土)などの「原料鉄」「石灰石」を加えて「炭火」で高温を得て、まだ炭素含有量は多く軟らかいが「鋳鋼」を造り、「鋳鍛冶技術」鋳造剣七支刀など)や農具などを造った。

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  原料鉄の「赤土」と鋳造剣とされる石上神宮の神宝「七支刀」

 余談になるが四世紀後半(弥生時代後期)の朝鮮半島の建国の状況を見ると、辰韓を併合し「新羅国」を、馬韓「百済国」を、弁韓馬韓の南部を併合し「伽邪諸国」を建国した。五世紀後半になって「新羅国」「鉄」を産する「伽邪諸国」の西半分の阿羅伽羅)地方を併合した。以後「伽羅国」は朝鮮半島と日本をつなぐ重要な役割を果たすことになる。「伽羅国」の前身は弁韓である。弁韓は「鉄」の産出国で日本の「製鉄文化」を築く発端となった。

(5)・3 第三波「製鉄文化」

 「紀の国」に入植した「額田部族」の「額田部石凝姥命」をはじめ子孫の「天湯河桁命」、「額田部湯坐命」、「額田部柱津命」と子孫代々に亘り新しい「製鉄文化」を伝え、伊賀や神戸などに広く伝播した。

 和泉鳥取郷に入植した「額田部族」を掌握管理していた「加茂氏族」係累の「建甕槌命」(「大伴氏族」や「伊勢鴨部」を輩出する「紀の国」の名門豪族)は鉄鉱石の精錬を可能にする画期的な「窯焚き技術」を発明した。それは「炭火」で鉄鉱石を脱炭する精錬法(「炭化焼成法」)である。古代史上最大の発明で「窯焚きの神」と云われ、「神剣」誕生に結びついた事から、「倭朝廷」に於ける最高位の「神」として崇められた。

 一方伊賀の地に於いては、「葛城族」の「高倉下命」と子孫が丹土や丹鉄を求めて宇陀、名張、山添、伊賀へと開拓を進め、伊賀の地に至り、「高倉下命」の三代孫の「彦伊賀都命」(猪名部の祖)が鋳鍛冶に必要不可欠な「耐火土」(伊賀土と称し鋳型や窯や溶鉱炉を造る「耐火土」で、広沢地区耐火粘土鉱床で採れる)を発見した。

 「朝廷」「御食国」を管理する「中臣氏族」「伊香津臣命」「朝廷」から「伊賀国」に派遣され、伊賀土を発見した「彦伊賀都命」と画期的な「窯焚き技術」を発明した「建甕槌命」新羅「鋳鍛冶技術」を継承する「額田部湯坐命」「額田部族」を統率する「意富伊賀都命」の四族を率いて新しい「鋳鍛冶技術」の創生を目指して伊賀の地に移住した。

 伊賀の地で五族が力を結集し、「鉄鉱石」を「原料鉄」として、炉に「鉄鉱石」と「石灰石」を入れ「炭火」で高温燃焼し脱炭、脱滓する「溶融精錬」を行い、「錬鉄」や「鋼鉄」を得て「鍛造鍛冶」を行う日本初の革新的「製鉄法」を開発、確立した。「鋳鍛冶族」は伊賀郡猪田郷・猪田や伊那具の地を拠点として活動し、それぞれこの地の一大豪族となった。

 猪田郷で最初に創られた一振りの「剣」「鋳鍛冶族」の祖先の「御魂」として「猪田神社」に祀られたが、「大王家」直轄地三輪山に建立し、後に「物部氏」氏社となる「石上神宮」「布都御魂剣」と銘打って奉納された。この「神剣」「溶融精錬」で得た「錬鉄」鍛造する「和鍛冶」と云う技法で造られたものであると思われる。検証はされていないが、「鋼鉄」を得て鍛造する「韓鍛冶」と云われる技法で造られるのは、本格的に鉄鉱脈床を開拓して「製鉄」が行われる湖北木之本以降ではないかと考える。

 猪田郷で新しい「製鉄文化」を拓いた「彦伊賀都命」は「伊賀国造」を賜り、その子「天知夷沙比止命」は水口郷を拓き「伊賀国造」を継承し水口の豪族となった。「朝廷」は「伊賀国」を「直轄地」として掌握管理するために「物部氏」の四代当主「大水口宿禰命」と五代当主「大綜杵命」を二代に亘って派遣した。

 「鋳鍛冶族」を率いて伊賀の地に移住して「伊賀国」を鉄生産地に仕立てた「中臣氏族」の「伊香津臣命」は次の「御食国」づくりを目指して居留地の伊香立を発って湖北の鉄鉱脈開拓のために「鋳鍛冶族」を連れて伊香郡木之本村に移住した。子孫代々に亘ってこの地を開拓し、「製鉄」の一大拠点を築いた。

 さらに「中臣氏族」は木之本村を拠点に尾張や相模や鹿島へと開拓、展開していくが、「伊香津臣命」の孫の「神聞勝命」は東北開拓に派遣され、木之本を発ち鹿島へ移住し、東北の「製鉄」拠点を拓き、「製鉄文化」を築いた。

 湖北では良質な「鉄素材」が得られる鉱床伊吹山、七尾山、古橋、金糞山、西浅井、北マキノ、甲塚など)が多く、伊賀の地で開発した「鋳鍛冶技術」を基にした「製鉄法」炭素含有量の少ない良質の「鋼鉄」が得られ強靭な日本刀が作れる質・量伴った本格的な「製鉄」が行われる様になった。

(5)・4 第四波「製鉄文化」

 四世紀頃(古墳時代)、「新羅国」から筑紫に渡来した「鋳鍛冶族」の「都奴我阿羅斯等」や「採鉱製錬族」の「額田部築箪」や「銅精錬族」の「額田部大加賀美命」や筑紫に居留する「水銀精錬族」の「息長水依姫」などの「技術工人集団」を率いる「国押富命」が「物部氏」の「海部」である海人「安日彦族」に帯同、「瀬戸内海ルート」で播磨、姫路、米原穴邑、敦賀、小浜、豊岡、出石に渡来、「鋳鍛冶技術」を伝えた。

 彼らが伝えたのは「溶融精錬法」で精錬した「半溶溶鉄」を取出し、繰り返し「赤熱反復鍛造」し脱炭、腔滓し「錬鉄」や「鋼鉄」を生成する「大鍛冶」と云う技法である。

 又、蒲生の地に入植し、「鋳物師の里」を拓いた「額田部大加賀美」は十代「崇神大王」の代に、「天照大神」の御魂代としての「八咫鏡」を鋳造し諸国の「元伊勢神宮」に奉納し祭祀に貢献した。

(5)・5 第五波「製鉄文化」

 五世紀以後古墳時代後期に、朝鮮半島の阿羅諸国が滅亡し、多くの知識や技術を持った伽羅国人が筑紫に渡来した。筑紫の基肄を拠点とする鉱山師の「武内宿禰」は新しい「鋳鍛冶技術」(砂鉄から原料鉄を造る)を持った鋳鍛冶工人「楯人宿禰」(後の「仁徳大王」)や「基肄宿禰」(「木菟宿禰」)、「蘇我石川宿禰」、「巨勢小柄宿禰」、「波多八代宿禰」、「若子宿禰」、「木羅斤資」(「木満致」)等多くの文化人や技術工人を率いて海人「阿知族」の「味師内宿禰」に舟同し三島江の対岸の内里に入植した。

 さらに一行を葛城に移住、帰化させ、葛木地方に「たたら製鉄」と云う新しい「製鉄文化」が根付いた。そして羽曳野、藤井寺堺方面に広がり、さらに多量の砂鉄を求めて中国地方の吉備や出雲地方に広がって行った。

 「たたら製鉄」は砂鉄を鉄素材として原料鉄の「銑鉄」を造り、溶融、鍛造を繰り返す「大鍛冶」と云う技法で、「錬鉄」や「鋼鉄」を造る「ズク押法」と原料鉄の「鋼鉄」(「玉鋼」)を直接造る「ケラ押法」の二つの方法がある。造った「錬鉄」や「鋼鉄」を原料鉄として「鍛造鍛冶」を行う。「ズク押法」では包丁や農機具、工具などの刃物を造り、「ケラ押法」では日本刀を造る。この様に日本刀に代表される日本特有の「刀鍛冶の文化」を伝えた。

 「たたら製鉄」法の基本は「耐火土」で強固に築いた「炉」に木炭を燃やしてその上に砂鉄を敷き詰め、これを繰り返し積層し、木炭を還元(炭化)燃焼させ、蹈鞴を踏み続け三昼夜燃焼して「鉄」を得る。

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    古代「たたら製鉄」のイメージ図

 「ズク押法」間接製鉄法と云い「銑鉄」を造る事を目的とし、砂鉄赤目砂鉄と云い閃緑岩系を母岩としチタンが多く、炭素量が高く融け易い「鉄」鋳物に適す)が得られる。これを「大鍛冶」で脱炭し「鋼」(左下鉄)や包丁鉄を得る。

 「ケラ押法」直接製鉄法と云い砂鉄から直接「鋼」玉鋼)を造る方法で、砂鉄真砂砂鉄と云い花崗岩系を母岩としチタンが少なく、伸ばしたり鍛える事が出来、焼きを入れて硬くする事が出来るので刃物工具に用いる。

 余談になるが、「たたら製鉄」はなぜ日本独自のものとして発展したかは「鉄山秘書」「たたら製鉄」三大要素に示されている。

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category: (5)朝鮮半島から伝播した製鉄文化

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