好々彦の神代文化考

神話と系譜と足跡を元に”古代人の生き様”を読み解き、新しい古代史の視点を提案する。きっとあなたの古代史観が変わる!                                                              

天照大神の奉斎と大和国家の統一  

(1)神話創生と大和国家統一

 倭国の形成は早期から「製鉄文化」を導入した「紀の国」、「但馬国」、「伊賀国」、「淡海国」、「尾張国」など「倭国」の周辺諸国を「御食国」とする事から始まるが、離れた地方国は「在地豪族」「製鉄民族」などの渡来人が力をつけて強大化し、「倭王権」にとって難敵となり、併合するに苦戦を強いられた。

 そこで「倭王権」は日本列島の諸国を併合する為に全国各地に「征伐大将軍」を派遣した。八代「孝元大王」の代には山陽道将軍「吉備津彦命」として「大王」の王子「稚武彦命」「吉備国」へ派遣され、九代「開化大王」の代には東北道将軍として「大王」の弟「大彦命」「信濃国」「武蔵国」「常陸国」などの諸国に派遣され、十代「崇神大王」の代には「丹波道主命」として「開化大王」の王子「彦坐王」「彦宇斯王」親子二代に亘って「丹波国」に派遣され、十一代「垂仁大王」の代には東海道将軍として「崇神大王」の王子「建沼河別命」「東海諸国」「越国」「会津国」などに派遣された。

 十二代「景行大王」の代になって、「丹波国」、「能登国」、「吉備国」、「播磨国」、「伊予国」、「熊襲国」などが併合された。そして十四代「成務大王」の代に、殆どの国が併合された。

 『征伐大将軍を派遣した』と云う言葉の響きから、「朝廷」が大軍団を送り込んで戦闘を繰り広げ、敵軍を誅殺したり殲滅し、国盗りを成し遂げたと云うイメージが一般的にある様に思われるが、戦闘や殺戮だけが要因ではなく、「王権」が手中にした革新的技術「採鉱製錬技術」「鋳鍛冶技術」など)や製品など)やそれらを纏った武装などの出で立ちを駆使した開拓力「王権」組織力など総合的な「突破力」「征服力」が大きな脅威となったに違いない。

 様々な手段が駆使されたと考えられるが、加えて「神の力」を借りて征服すると云う手段を編み出し、国盗り(併合)が繰り広げられた事を特筆する。

 困難を伴う諸国統合、統治の一大事業には『神国思想』と云う神話を構築し、神の威光をもって諸国の支配者を従属させた。諸国を併合、統一するにあたり『神国思想』つまり『「大和国家」は天祖神「天照大神」が治める国であり、「天照大神」の末裔である「大王」が「天照大神」の神勅のもと永久に統治を行い、全ての政治は神事をもって行う』と云う思想である。「神の啓示」によって「大王家」畏敬、神格化を図った。

 天祖神「天照大神」の「御魂代」としての「神鏡」の威光をもって諸国の統治者を従属させ、従属の証として国毎に天照大御神神宮(元伊勢神宮と云われる)を建立し、「天照大神」の「御魂代」としての「神鏡」を奉斎すると同時に、大國魂神社を建立し「大国魂神」(その国を治めた統治者の祖先の霊)を奉斎させた。

 この「神話」は「孝元朝」から「崇神朝」にかけて創生され、十代「崇神大王」の代に本格的に「神話」に基ずく諸国統合が行われたと見る。「倭朝廷」が日本の諸国を統合、統治するために「崇神大王」の娘「豊鍬入姫命」の代に構築されたと考える。「大王」は併合した諸国の「元伊勢神宮」に祀られている「天照大神」の祭祀を行い、収穫の感謝や豊作祈願や収穫量の神示(お墨付き)などの務めがあるが、「御食国」増加と共に巡幸が困難になり、「大王」の代役を立てたのが「御杖代」「豊鍬入姫命」が初代「御杖代」に任命された事などから、この時期に構築されたと推測される。

 『神国思想』は「古事記」の「国生み神話」に示されている「天照大神」の御神勅を戴して創生されたものである。その大意は『高天原(天上界)を治めている天祖神「天照大神」は御子神「天忍穂耳命」に統治を任せるが、その御子の天祖「瓊瓊杵命」が葦原中国(地上界)に天降り、先に葦原中国で国造りをしていた「大国主命」が葦原中国を献上した。以降「瓊瓊杵命」の子孫たちが葦原中国を統治する様になった。「天照大神」は「鏡」を自身の「御魂代」として「瓊瓊杵命」に託した。子孫は伊勢神宮を造営して「鏡」を祭神「天照大神」として奉斎し、「天照大神」から王位を授かった者だけが統治者となることを許される』と云うものである。

 「大和国家」を併合、統一するために創出された天祖神「天照大神」は「倭国」の統治者「大王」の出自を神格化し権威づけするのに絶大なる効果をもたらした。余談になるが、「天照大神」が創出された事によって、「製鉄民族」など渡来人の「人祖神」として祀られていた「須佐之男命」は荒ぶる神として、「天照大神」の弟分に位置付けられて鬼門(忌門)に追いやられた。そのため「製鉄民族」などの渡来先住民「鬼」とされ、「鬼伝説」が生まれた。


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tag: 御食国  征伐大将軍  丹波道主命  神国思想  天照大神  御魂代  御杖代  豊鍬入姫命  元伊勢神宮  大國魂神社 
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天照大神」の奉斎と大和国家の統一  

(2)鴨王国「吉備国」の国譲り

(2)・1 農耕・製塩王国から製鉄王国へ

 縄文時代~弥生時代初期の「吉備王国」は先住弥生人「鴨族」と海人「大隅隼人族」が居留し、製塩や陸稲(粟や稗)耕作を営む広大な地域に亘る「鴨王国」であった。「鴨王国」は吉備や淡路島や四国の阿波を含む「鴨族」や「大隅隼人族」が居留する国である。

 海人「大隅隼人族」「椎根津彦命」「神武東征」「吉備国」高島から摂津三島江に至る水先案内をして、その功績により「倭氏」の姓を賜り、「吉備国」から三島江に至る「瀬戸内海ルート」制海権淀川渟名川)、河内湖茅渟海)、大和川倭川)の水利権を賜り、「朝廷」の加護の下「倭国」から「吉備国」に至る交易ルートを確固たるものにした。「倭氏」は代々「大王家」を送り込み、大きな利権を得ながら交易地方開拓「国造り」を拡大して来た。

 二世紀~三世紀頃、山師族の「大田田根子命」が率いて「紀伊国」に入植した新羅系民族の「鋳鍛冶族」が鉄素材を求めて、「大伴氏族」伴部を連れて「摂津国」、「播磨国」、「吉備国」、「讃岐国」、「伊予国」に入植し、当地に居住する「鴨族」鴨部を従属させ、瀬戸内諸国を開拓、発展させ、新しい「製鉄文化」や「土師文化」を根付かせた。

 「倭朝廷」は瀬戸内諸国に根付いて強大化していく地方豪族を取込み支配するために重臣の「倭氏」や「物部氏」を「吉備国」、「播磨国」、「伊予国」、「讃岐国」など諸国に派遣し、「御食国」化を図った。元々「吉備国」は製塩や陸稲耕作を営む先住弥生人の「鴨族」や「大隅隼人族」が居留する国であったが、突如として「製鉄民族」や「倭朝廷」が支配する国と化した。

(2)・2 桃太郎伝説の真実

 三世紀頃、「倭朝廷」は七代「孝霊大王」の王子「五十狭芹彦命」と腹違いの兄弟「稚武彦命」を「吉備国」に送り込み吉備臣に任命し、「吉備国」を統治させた。その後「稚武彦命」は「伊予国」を統治するに至る。それぞれの国を掌握管理し支配する豪族として君臨する事になる。「吉備国」を統治する「五十狭芹彦命」は初代「吉備津彦命」(吉備を支配する統治者)を拝命し、「伊予国」を統治する「稚武彦命」は「伊予津彦命」を拝命した。

 「五十狭芹彦命」の子孫はを結ぶ(による海上輸送による陸上輸送を繋ぐ)交易ルートを拓いた「日下部氏」を輩出し、「稚武彦命」の子「友耳建彦命」は造墓集団の「吉備大伴氏」となり、また十一代「垂仁大王」の代に「稚武彦命」の三代孫の「若建吉備津彦命」播磨国主となり、その娘「稲日王郎女」(いないおうのいらつめ)は景行妃となり「日本武尊」東北道征伐大将軍)を生む。「稚武彦命」の弟「彦狭島命」の子「越智王子」瀬戸内の要港を仕切る「伊予水軍」軍主となった。この様に「吉備国」に派遣された王統一族は「吉備国」の豪族となって瀬戸内諸国に君臨した。

 以上の事から「桃太郎伝説」の中から真実が見えて来る。鬼ヶ島で鬼退治した「桃太郎」は「吉備津彦命」であり、吉備団子を貰って家来となった「犬」は「物部氏」の系属「日下部氏」配下の「和気(別)部」(犬を自称し鉱石を探索する部民)で、「猿」は「倭氏」配下の吉備地方の先住弥生人「大隅隼人族」(祖神は猿田彦神)で、「雉」は吉備地方の先住弥生人「鴨族」「鴨部」(雉も鴨も山鳥で同じ山仕事をする部民)である。「鬼」は吉備に入植した「製鉄民族」であり、根城とした「鬼ヶ島」は「鬼之城」である事を伝説は物語っている。

(2)・3 温羅の正体

 神話として「桃太郎伝説」を生んだ備中一ノ宮である吉備津神社「吉備津宮縁起」温羅伝説が伝承されているが、その内容は十代「崇神大王」の頃、異国の鬼神が渡来して来た。その名は「温羅」と称し、元は百済の王子であった。鬼之城に居留し、吉備の国人を苦しめたので人々は「大和朝廷」に討伐を要請する。「朝廷」は七代「孝霊大王」の王子「五十狭芹彦命」を派遣する。

 「王子」吉備の山中に陣を敷いて対戦し、激闘が繰り広げられたが「温羅」は遂に捕らえられ、『「吉備津彦命」に相応しいのは貴方様である』と降参し、「王子」に国譲りをしたが、誅殺された。その首は吉備津神社の釜殿の地下に埋められたが、十三年間も釜鳴が止まなかった。「温羅」の霊を鎮める為の鳴釜神事が行われる様になったと云う。鳴釜神事発祥の由来や鳴釜神事に使われるは代々当地の「鋳物師」によるものである事や鬼之城を中心に広がる奥坂郷や「温羅」の妻の郷であるとされる阿曾郷一帯は「製鉄民族」の拠点で古代製鉄跡が多く発掘されている。

 以上の事から「温羅」は吉備に入植した「製鉄民族」であった事が伺える。また新しい「製鉄技術」「文化」を持ち込んで、当地を開拓し地盤を築いた地方豪族の「朝廷」に対する抵抗が激しかった事が伺える。

 「五十狭芹彦命」吉備に派遣された時は未だ「天日矛族」吉備に入植しておらず、九代「開化大王」の代になって渡来入植した。では、七代「孝霊大王」の代以前に入植した百済の「製鉄民族」は何者か?それは二世紀頃、鉄山師「大田田根子命」が「筑紫国」基肄から「紀の国」へ連れて来た新羅系民族の鋳鍛冶技術工人集団「別雷神」の子孫「額田部湯坐命」であろう。この鋳鍛冶技術工人達「紀の国」で鉄資源が枯渇すると新しい採取地を求めて、摂津や播磨や吉備地方にも移入した。

 温羅伝説では「温羅」誅殺されたとされているが、「吉備国」「製鉄技術」をもたらして繫栄させた功労者で、「朝廷」にとって重要な役割を担った存在であったため、「吉備津彦命」誅殺したのではなく懐柔したと考えることが自然である。

 また、「丹波国」にも温羅伝説と全く同じ筋書の大江山鬼伝説がある。大江山の「鬼」とは「製鉄民族」であり、海人「鳥取族」に帯同して丹波の若狭地方(大江山の麓に位置する竹野川流域や由良川流域の地)に入植した「丹波由碁理」一族である。「丹波道主命」として派遣された「開化大王」王子「彦坐王」大江山とされる「陸耳御笠」を配下にする「由碁理」一族と婚姻関係を結び配下に治めたのである。「由碁理」の孫娘の「丹波河上姫」川上麻須郎女)が「彦坐王」となり、孫の「丹波大倉岐命」「丹波国造」を拝命し、子の「川上出石別命」の三代孫「船穂足尼命」「但馬国造」を拝命した。

(2)・4 鉄資源の宝庫ー吉備、播磨、丹波地方

「吉備国」や「播磨国」や「丹波国」は鉄資源を豊富に産する国であった。中国山地比婆山・道後山や山陰の大山などの旧火山帯で形成された火成岩花崗岩が風化して流れ出した「砂鉄」が「吉備高原」に堆積して、「砂鉄」の一大産地となった。また、大山から流れ出した「砂鉄」が「津山盆地」に堆積して、「砂鉄」の一大産地となった。また、播磨→三木→「津山盆地」に至る中国山地を縦貫する「大断層帯」は「鉄鉱石」の一大産地となった。

 丹波山地を構成する大江山、赤石岳床尾山、鉄鈷山、田倉山宝山ー京都府唯一の火山)や粟鹿山砂鉄山)などの火成岩が風化して由良川や円山川やその支流の出石川に流れ出して堆積した「砂鉄」、さらに丹波山地を縦貫する「三岳山断層」や「養父断層」に沿って鉱脈露出した「鉄鉱石」など良質な鉄素材の一大産地となった。

(2)・5 山陽道や丹波道は「鉄の道」
 三世紀~四世紀頃、新しい「鉱精錬技術」を持って新羅国から渡来した「天日矛族」(製鉄技術集団の「都奴我阿羅斯等」、鉱採掘技術集団の「額田部筑箪」、製銅技術集団の「額田部大加賀美」、水銀精錬族の「息長水依姫」など)が海人「安日彦族」に帯同して鉱資源を求めて、山陽道や丹波道の諸地域に入植した。海人「安日彦族」「朝廷」の要職を務める「物部氏」「海部」を務める事から、「物部氏」が「天日矛族」の入植地を斡旋し、開拓を支援したと考える「天日矛族」「物部氏」に従属して移動した「鉱精錬技術工人集団」であると云える。

 斡旋した地域の一つは、二世紀頃に鉄山師「大田田根子命」が「紀伊国」に連れて来た元祖「鋳鍛冶族」とも云うべき「雷族」が新たに鉄資源を求めて移住した吉備地方や播磨地方である。もう一つは「紀伊国」に渡来した「雷族」と「葛城・猪名部族」が一体となって新しい製鉄開拓をすべく「朝廷」から派遣され、移住した「伊賀国」や「淡海国」である。

 さらに、二世紀頃に若狭湾岸楕円構造断層帯に産する水銀鉱脈を開拓、入手する為に「朝廷」から派遣され移住した「吉野丹生水銀族」と「天村雲命」一族が居留した若狭地方であり、前三~二世紀頃に鳥取地方に渡来入植した新羅の「鳥取族」系「鬼族」(鍛冶族)が居留した丹波地方である。

 「倭朝廷」は、それぞれの「鬼族」が開拓した諸国の居留地、吉備・播磨地方や伊賀・淡海地方や若狭・丹波地方に「物部氏」をして次々と斡旋入植させ、新しい「製鉄技術」の導入を図った。

 「物部氏」の斡旋により、「天日矛族」鉱資源を求めて山陽道丹波道の各地に入植し鉱採掘鉱精錬を行ったが、掘削道具や掘削機が未発達な古代に於いては地下の鉱脈を探索し掘削するのは難しく、火山性溶岩が風化して岩石や砂状になって河川に流れ出して堆積した鉱石や鉱砂を採取する方法か、又は「断層帯」や「地溝帯」に露出した鉱脈から鉱石を採取する方法が最も合理的な方法であったと考える。

(2)・6 三つのルートで開拓された「鉄の道」

 筑紫基肄に渡来した「天日矛族」瀬戸内海を東進して吉備播磨摂津にやって来た。この瀬戸内吉備播磨摂津を起点とする「三つのルート」から製鉄開拓が行われた。

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                  天日矛族の入植ルート図

天日矛族入植ルート①
 《吉備→比婆・道後・船通山→出雲》
 《吉備→大山》
 《吉備→津山盆地》

 「天日矛族」の一枝は吉備国主「五十狭芹彦命」(初代「吉備津彦命」「吉備国」の統治者の意)が支配する「吉備国」に入植した。比婆山や道後山など旧火山帯や断層帯で形成された火成岩や花崗岩が風化して河川に流出し、河口や盆地などに流入堆積した砂鉄などの鉄素材を求めたルートである。比婆山道後山を源流とする高梁川大山を源流とする旭川などが注ぎ、また大山「奈岐山断層帯」「砂鉄」が流入堆積した広大な「津山盆地」を源流とする吉井川が注ぎ「砂鉄」が流入堆積した「吉備高原」と云う広大な産鉄地がルート①の入植地である。

 それぞれの河川を遡上し製鉄工房を設け「砂鉄」採取精錬をした。高梁川流域では上流の「神郷」「新見」に、また中流域の「高梁」に、旭川流域では上流域の「新庄」「八束」「真庭」に、また中流域の「建部」「御津」「赤坂」「瀬戸」に、吉井川流域では「津山盆地」「津山」「勝央」「美作」に、中流域では「和気」に、下流域には「長船」製錬鍛冶の拠点を置いた。また「鏡野」「久米」「日下部氏」で重量物の運搬を司る氏族)の居留地であり、「佐伯」「和気」採取部民の居留地であった。また「加茂」「鴨族」鴨部の居留地であった。

 中国山地花崗岩「山陰花崗岩」「山陽花崗岩」に区分されるが、「山陰花崗岩」は磁鉄鉱を多く含み純度が高い「砂鉄」で、山陽花崗岩磁鉄鉱の含有が少なく真砂砂鉄と云う純度が低い「砂鉄」で、当然純度が高い「砂鉄」を求めて山陰側に向かって開拓が進められた。

 高梁川旭川の上流を遡上し、純度が高い「砂鉄」を求めて船通山比婆山道後山の一帯の「砂鉄」採取製錬を行う製鉄工房を開拓した。さらに斐伊川を下り船通山山麓の「印賀」「横田」では「たたら製鉄」が盛んに行われ、中流の「奥出雲」では江戸時代にかけて盛んに「たたら製鉄」が行われた製鉄工房の拠点であった。吉備から出雲古志に至る「吉備→出雲」ルートやその枝ルートで日本の「製鉄文化」を代表する「たたら製鉄」が確立された。

天日矛族入植ルート②
 《播磨→三木→奈義→津山盆地》

 「天日矛族」の一枝は播磨国主「稚武彦命」が支配する「播磨国」に入植した。播磨→三木に走る「草谷断層」三木→山崎→奈義に走る「山崎断層帯」、奈義→津山に走る「奈岐山断層」に至る中国山地を縦貫する「断層帯」に沿って鉄鉱石など鉄素材を採掘し、「製鉄工房拠点」を開拓した。この中国山地を縦貫する断層帯と中国山地を源流として瀬戸内海に注ぐ河川と交差する近辺に「製鉄工房拠点」が設置された。

 高砂港に注ぐ加古川との交点付近に「小野」姫路港に注ぐ市川との交差点付近に「福崎」御津に注ぐ揖保川との交点付近に「宍粟」赤穂港に注ぐ千種川との交点付近に「粟倉」「作用」、児島湾に注ぐ吉井川との交点付近に「津山盆地」「鏡野」「津山」「勝中」「美作」などに「製鉄工房拠点」が置かれ「製鉄の郷」として発展した。

 製鉄工房で造られた原料鉄製品鉄交易朝貢のために河口の「拠点港」に集積され、目的地まで海運で届けられた。「製鉄工房拠点」から最寄りの河川港までの陸運は「日下部氏族」が馬による陸運をした可能性がある。

 これは「五十狭芹彦命」の子孫に「日下部氏」を輩出しているからである。「日下部氏」のルーツは前二世紀頃、ツングース系の渡来人「日下部馬津久流久美」が九州の阿蘇から「倭国」平群に入植し、娘の「阿野姫」「物部氏」海部の祖「味饒田命」に嫁いで、子の「神日子命」「阿刀部」によって舟運から陸運への橋渡し役をした部民)を率いて「物部氏」海部を代々務めた氏族である。「阿刀部」「日下部馬津久流久美」の子孫であり、「日下部氏」「阿刀部」を配下にして「物部氏」海部を務めた氏族ではなかろうか。

 「日下部氏」の一枝が吉備に入植し「五十狭芹彦命」の子孫と結ばれ「吉備日下部氏」となった可能性がある。「吉備日下部氏」別部(わけべ、和気部とも云う)と云う鉄鉱石を採掘する部民を率いて、「津山盆地」に集積した「砂鉄」採取運搬中国山地を横断する「断層帯」鉄素材採掘運搬精錬に必要なを作るの引き下ろしなどを駆使する運搬役を司り、「久米」「鏡野」を本拠地とした。「鏡野」に居留した「日下部氏」「作用姫」は十二代「景行大王」の九州「肥の国」巡幸に随行したとある。

天日矛族入植ルート③
 《淡海三上山→若狭青葉山→丹波大江山→出石》

 「天日矛族」の一枝は大阪湾から淀川を遡上し琵琶湖に出でて、「物部氏」五代当主「大水口宿禰命」が支配する近江富士と云われる三上山(鋳鍛冶族の聖地)を目指した。さらに若狭湾に出でて、若狭国主「建田勢命」が支配する若狭富士と云われる青葉山(丹生水銀族の聖地)を目指した。さらに丹後竹野川流域を拠点とした「由碁理」一族(大江山の鬼族)が支配する鬼伝説地大江山を目指した。

 三上山を目指して渡来した「天日矛族」一行の「額田部大加賀美命」一族は野洲川下流域の草津穴村穴村阿羅神社「天日矛」祭神として祀られている)に入植し、日野川中流域にある蒲生の地に「天照大神」「御魂代」としての「神鏡」を鋳造した「鋳物師の里」を拓いた。

 青葉山を目指して渡来した「天日矛族」一行の「息長水依姫」一族は穴村を後にして琵琶湖を北上して塩津→敦賀気比を経て若狭湾に出でて東舞鶴行永に入植し、「若狭湾岸楕円構造断層帯」水銀鉱脈の開拓をし、金銀などの「鉱精錬技術」を伝播し、行永倉梯山聖地とした。

 余談になるが、「息長水依姫命」は九代「開化大王」王子で初代「丹波道主命」として「丹波国」に派遣された「彦坐王」となり、「丹生水銀族」「朝廷」の支配下に入り、この時から「若狭国」「倭朝廷」「御食国」となった。

 大江山を目指して渡来した「天日矛族」一行の「都奴我阿羅斯等」一族は由良川を遡上し、大江山を北西に臨む中流域にある「阿良須」(現大江町)に「砂鉄」「鉄鉱石」採取採掘する「一大拠点」を置いた。

 鉄資源を採取、採掘する拠点づくりは丹波山地を時計回りで周回する様に由良川及び支流、円山川の上流域、円山川の下流域で分流する出石川に沿って展開された。「阿良須」を起点に由良川支流の牧川源流と円山川源流との分水嶺にある「額田」に、円山川の上流域の「朝来」に、さらに下って「養父」に、さらに下り、「豊岡盆地」で分岐する出石川を遡上し赤石岳の西麓にある「奥赤」などに拠点を置いて良質な「砂鉄」採取を行った。最終的に出石川「豊岡盆地」に注ぐ「出石」の地を最終拠点とし、「天日矛族」の子孫は出石神社を建立し祖先を祀り、「天日矛族」聖地とした。

続きを読む(2)・7製鉄文化を伝播した山陽横断道→頁末の …続きを読む… をクリックして下さい。      (2)・8製鉄文化を伝播した陰陽縦断道

(2)・9 「鉄」を制した「大和国家」

吉備の鬼退治と丹波の鬼退治
 「砂鉄」や「鉄鉱石」などを多く産する吉備地方には「製鉄民族」が何代にも亘って波状的に渡来した。古くは、前三~二世紀頃、新羅系民族の海人「鳥取族」に帯同して鳥取曳田郷に入植した「鍛冶技術」をもつ「額田部」祖人が、新たに鉄素材鍛冶技術を求めて「津山盆地」を経由して「吉備高原」まで南下し入植した可能性がある。また二世紀頃、「紀伊国」に入植した新羅系民族鋳鍛冶工人「額田部湯坐命」一族が「吉備国」に移住している。

 四世紀頃には、新しい「製鉄技術」を持った新羅系民族「天日矛族」「吉備国」に入植した。吉備地方に入植した民族や時代が錯綜して混然一体化している。いずれにせよ「吉備王国」は「製鉄民族」によって築かれた王国であることには違いない。

 同様に「砂鉄」や「鉄鉱石」などを多く産する丹波地方にも「製鉄民族」が古くから渡来した。前三~二世紀頃、「鳥取族」に帯同して鳥取の曳田郷に入植した「額田部」の祖人の子孫の「由碁理」が山陰沿岸を東拓しながら丹後半島の竹野川流域に入植した。「由碁理」湯凝り鉄塊を溶かして鎚打ち製品鉄を作る鍛冶屋)は鉱採取部民「陸耳御笠」大江山に比定される)を率いて竹野川流域の鳥取郷を拠点に丹後山地「断層帯」に露出する「鉄鉱石」採掘製鉄を行った。

 さらに阿蘇の海天橋立のある湾)から野田川流域の与謝野加悦を拠点に丹後山地を縦貫する「断層帯」「鉄鉱石」採掘製鉄を行い、また由良川流域の大江町阿良須を拠点に大江山三岳山から流れる「砂鉄」三岳山から流れる「砂鉄」「三岳山断層帯」「鉄鉱石」採掘製鉄を行った。

 四世紀頃、新しい「製鉄技術」を持った新羅系民族「天日矛族」の「都奴我阿羅斯等」が円山川流域の豊岡盆地の出石に入植した。丹波地方吉備地方に劣らぬ「製鉄王国」であった。

 この様にして、九代「開化大王」の時に、新しい「製鉄技術」や「製鉄文化」を持った新羅系製鉄民族の「天日矛族」(「都奴我阿羅斯等」、「額田部筑箪」、「額田部大加賀美」、「息長水依姫」など)が「吉備国」や「播磨国」や「丹波国」に「製鉄文化」をもたらした。

 十代「崇神大王」の勅命により「稚武彦命」の孫「吉備建彦命」は山陽道を平定し、二代「吉備津彦命」(吉備国の統治者の意)を賜った。「吉備津彦命」子孫代々は「吉備国」を掌握し「吉備国造」「吉備氏」へとつながった。難攻不落の「吉備国」は六代の「大王」に亘って「大和国家」への併合が成し遂げられた。

 一方「丹波国」に於いて、「開化大王」は王子「彦坐王」を丹波地方に派遣し大江山の鬼(渡来原住民の「陸耳御笠」)を退治し、丹波地方を支配下に治めた。「開化大王」丹波大県主「由碁理」の娘「竹野姫」を娶り配下に治めて、若狭地方若狭郡与謝郡に分割し、与謝郡竹野に屯倉(元伊勢外宮・与謝宮に比定)を置いて「朝廷」の「御食国」とした。

 「開化大王」の王子「彦坐王」「丹波道主命」として「丹波国」に派遣され、「竹野姫」の兄「丹波川上麻須命」の娘「丹波川上麻須郎女」丹波河上姫)を娶り、孫の「丹波大倉岐命」「丹波国造」を賜った。

 この様に、「彦坐王」は「丹波国」を支配下に治め、「由碁理」の配下にあった「陸耳御笠」を「都奴我阿羅斯等」の配下に入れ、また「由碁理」と同族の海人「鳥取族」を、若狭湾を仕切る海人豪族「建田勢命」の配下に入れ、外洋航海術大型丸木舟を造る技術を手中にした。また東舞鶴の行永に入植した「天日矛族」の「息長水依姫」を娶り、「丹生水銀族」を「朝廷」の配下に治めた。

丹波、尾張を切り拓いた海人「葛城族」(「天村雲命」一族)
 前三~二世紀頃、海人「鳥取族」に帯同して渡来した新羅系民族「鋳鍛冶族」たちが席巻する「但馬国」を「御食国」として支配下に治めるために、「朝廷」から派遣された海人「天村雲命」と「吉野丹生族」の首「伊氷鹿」は若狭青葉山に降臨した。それぞれの子孫「御蔭命」「井光姫」が結ばれ「笠水彦命」を儲け若狭の豪族として若狭志楽郷に居留した。「御蔭命」「朝廷」の大臣「倭宿禰命」を賜り子孫代々は若狭地方を統括する立場になった。「御蔭命」の三代孫「建田勢命」は「若狭国造」を賜り、「若狭国」は水銀など朝貢物を献納する「御食国」となった。

 九代「開化大王」の代に、若狭湾青葉山麓にある志楽郷を拠点とする若狭の豪族「建田勢命」は「丹波国造」を賜り、「丹生水銀族」を掌握管理し、若狭の屯倉(元伊勢根本宮・籠神社に比定)の運営を命じられた。さらに「海部氏」を賜り、貢納物を「丹波国」から「倭国」まで舟運貢納する役を命じられ、「山城国」久世郡水主村に拠点を移した。水主村から「朝廷」屯倉までの収納は「倭得玉彦命」山代国造)が担った。因みに「朝廷」屯倉の運営を行ったのは大臣「中臣氏」である。

 十代「崇神大王」は、「山城国」水主村に移住した「建田勢命」の後釜として「丹波国」に赴任した「建多乎利命」の娘「尾張大海姫」を娶り王子「八坂入彦命」を儲け、竹野川中流の弥栄(やさか)に配置し、与謝郡に置いた屯倉の運営を任せて、大臣「物部氏」が丹波の「御食国」の管理を行った。以降「丹波国」は完全に「倭朝廷」の属国となった。

 「建多乎利命」の孫「乎止与命」は、彦根稲部から尾張員弁(いなべ)に進出した「尾張大印岐」(尾張員弁氏の祖)の娘を娶り「建稲種命」を儲け、員弁郡の隣の海部郡に拠点を定めた。「尾張連」と「尾張海部氏」を賜り「尾張氏」の祖となった。鉄器や武器製造朝貢交易の舟運を担い、また「倭猛命」(日本武尊)東征海部を担った。子孫は「建稲種命」熱田神宮祭神として祀った。

「吉備国」と「丹波国」の因縁
  十一代「垂仁大王」の代に「稚武彦命」吉備臣)の三代孫の「若建吉備津彦命」吉備臣)は「播磨国主」となり、「播磨国」に入植した「製鉄技術集団」を支配する様になった。一方「但馬国」に入植した「製鉄技術集団」「但馬国主」(二代目「丹波道主命」「彦宇斯王」の義兄「川上出石別命」の三代孫「船穂足尼命」)が支配した。「播磨国主」と「但馬国主」の祖先は共に七代「孝霊大王」である。

 「孝霊大王」の正妃「和珥氏」系の「細姫命」の係累の六代孫「船穂足尼命」「但馬国主」を務め、外妃「土師氏」系の「蝿伊呂杼命」の係累の四代孫「若建吉備津彦命」「播磨国主」を務めた。「但馬国」と「吉備国」は共に「製鉄開拓」ルートとして繋がったが、支配者の血統に於いても深い繋がりがあった。

 十代「崇神大王」の代に「倭朝廷」は日本の諸国の統合を始めたが、「製鉄民族」によって築かれた諸国の抵抗は大きく難攻したが、「鉄」を制した事により「大和国家」が実現したと言っても過言ではない。十五代「応神大王」の代には諸国併合がほゞ完了した。

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 [系譜から見る丹波・尾張を切り拓いた海人「天村雲命」一族]                 
 [系譜から見る製鉄の国「但馬国」と「吉備国」の成り立ち]
 [余談編 1阿蘇について 2キイについて]



 
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category: (2)鴨王国「吉備国」の国譲り

tag: 桃太郎伝説  鬼伝説  温羅  吉備津彦命  製鉄王国  鉄の道  天日矛族  陸耳御笠  丹波由碁理  建田勢命 
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天照大神の奉斎と大和国家の統一  

(3)鴨王国「出雲国」の国譲り

青銅器を掲げる出雲の「大国主命」

 縄文時代の出雲地方は中国の「青銅器文化」の影響を色濃く受けた渡来先住民である「鴨族」が居留する出雲地方に新羅系民族(「鋳鍛冶技術」を持った「額田部族」)が入植し、一大文化圏「鴨王国」を築いた。

 出雲地方に渡来した「鴨族」は青銅器を携えてやって来た。青銅器鉄器とほゞ同時期に中国から朝鮮半島を経由して日本に伝わった。青銅器との合金であり、鉄鉱石を精錬する時に同時に産出することが多い金属であるが、「鴨族」が持参したものは中国伝来の武器としての「銅剣」や「銅矛」で、銅鉱採掘精錬技術を持たないこの時代に於いては「原料銅」として使われ、当時の「鋳鍛冶技術」を駆使して祭器としての「銅矛」や「銅鐸」に作り変えられた。

 青銅器の「銅剣」、「銅矛」、「銅戈」(どうか)、「銅槍」、「銅斧」など実用の武器から、戦争のなかった出雲地方では祭祀用途の道具に作り変えた。「銅剣」「銅矛」「銅戈」平形、広形へと変化し、長尺の木柄の先に取り付け、銅身首部に紐状の房を取り付け、儀式用の幟旗(のぼりはた)や桙立てとして活用した。また「銅鐸」は「釣鐘」や「吊鉦」(つりかね)として活用した。

 朝賀儀礼入朝儀礼戴冠儀礼自然恩恵感謝豊作祈願感謝冠婚葬儀などの祭事儀式の場の入場行進で掲揚したり、祭場の正殿脇の幡台などに掲揚した。本来の用途から変化し、「銅矛」や「銅鐸」は「幡」や「釣鐘」や「吊鉦」などに変わった。

 「出雲鴨族」が創り上げた「青銅器文化」は「武器」を「祭器」に変化させ、祖先の威徳を表徴したり、儀礼祭祀などの入場行進で携行表徴したり、殿前に旗立をして表徴をする儀礼祭祀用の仗旗(じょうき)として「銅矛」を鉾立(旗立)したのである。

 出雲地方神庭荒神谷遺跡加茂岩倉遺跡で多量に祭祀に使ったであろう「中細、広形銅矛」「銅鐸」が整然と並べられた状態で出土している。この異様なまでの光景は何を意味しているのか?また土中に埋設した真相は何か?

 四世紀頃(九代「開化大王」の代)、新しい「製鉄技術」を持った「天日矛族」「物部氏」斡旋により、製鉄王国「吉備国」に入植し、「吉備国」「鋳鍛冶族」と共に比婆道後山大山から流出する良質な砂鉄を求めて「吉備→出雲」ルートや「吉備→大山」ルートを開拓出雲地方に進出し、斐伊川上流域奥出雲雲南に、伯太川流域印賀安来に、日野川流域日野江府伯耆に、製鉄拠点を設けて居留地とした。

「天日矛族」と吉備の「鋳鍛冶族」は出雲地方に進出し、縄文先住民(「鴨族」や「額田部族」)と懐柔し、共に製鉄王国「出雲王国」を築いた。

「出雲国」を建国した「倭建命」

 「出雲王国」は当時「出雲」と云う名称はなく「杵築」(きづき)、「意宇」(おう)、「熊野」(いや→語源は猪野、鋳谷)などの地名で呼ばれていた。「杵築」は現在の加茂市を中心とした地域で、この地を治める豪族「振根命」が統治し、「意宇」は現在の安来市から松江市にかけた地域で、この地を治める豪族「伊幣根命」「振根命」の弟)が統治し、「熊野」「杵築神庭」裏庭(僻地)に当たり製鉄工房が多くある雲南地方で、この地を治める豪族「櫛御気野命」が統治していた。

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       「出雲王国」を築いた出雲地方の豪族の勢力図

 十一代「垂仁大王」の代に、諸国平定のために十代「崇神大王」王子「建沼河別命」(「西国道、東国道将軍」)と「若建吉備津彦命」(二代目「吉備津彦命」)が「出雲国」に派遣された。「杵築」は暴れ川で川筋が定まらない斐伊川の河口付近に位置するが、良質な砂鉄を産する魅力的な土地柄であり、「倭王権」は支配下に治めるに当たって、「振根命」の抵抗が激しく、誅殺を余儀なくされた。「杵築」裏庭に当たるが製鉄工房が多く置かれた「熊野」と共に「意宇」に併合され「意宇郡」が制定された。

 「建沼河別命」と「若建吉備津彦命」の「西国建国隊」一行は「倭朝廷」の威信を表徴する「幡」を高々と掲げて「出雲王国」に入陣したのである。「杵築」に居留する「振根命」一族は、その威を畏れて一族の「表徴」は地下深くに埋設され、後には「天照大神」の「御魂代」としての「神鏡」の「原料銅」として供出する事になる。これが国譲りによって「銅矛」や「銅鐸」が地下に潜った真相である。

 十二代「景行大王」の代に、「景行大王」「播磨国」「出雲国」巡幸する際に、十六歳になった王子「倭建命」日本武尊)が「出雲国」随行し、「西道・東道建国隊」デビューを飾るが、西道建国に続いて東道建国の旅を挙行するが三十二歳の若さで没したと云う。

 「景行大王」と「倭建命」が「出雲国」を巡幸した際、「意宇郡」を統治する「鵜濡渟命」(うじぬまのみこと)は「意宇郡司」を賜り、「出雲国造」の祖となる。「景行大王」の代に、杵築大社創建なるが、十三代「成務大王」の代に、「倭建命」が「出雲国」を建国し、「鵜濡渟命」の子「宇迦都々努命」が初代「出雲国造」を賜り、以降「出雲国造」が代々「出雲神主家」を務める様になる。それまでは「出雲建子命」「宮司家」を務めた。十四代「仲哀大王」の代に、「品陀真若王」(仲哀大王急死に伴い王位継承した)が「出雲国」を巡幸した際、「宇迦都々努命」の子「来日田錘穂命」が二代目「出雲国造」を賜った。斐伊川の恵(良質な砂鉄)でもたらした豊穣(鉄製品など)を「朝廷」に貢納する「屯倉」を「意宇郡」に置いた。「意宇郡」に坐す熊野大社祭神「櫛御気野命」であり、この「屯倉」熊野大社ルーツであった可能性が大きい。こうして「出雲国」「倭朝廷」併合された。

 熊野大社と後に建立された杵築大社は共に「出雲国」一ノ宮であるが、熊野大社が筆頭大社である。その理由は、熊野大社「出雲鴨族」祖神大国主命)を祀り杵築大社「伊勢鴨族」祖神大国主命)を祀っているからである。

[系譜で見る初期「出雲国」の成り立ち]
                                                                                       [⑭仲哀大王] 急死
[⑩崇神大王] [⑪垂仁大王]       [⑫景行大王] [⑬成務大王] [⑭品陀真若王] 継承 

        建沼河別命・若建吉備津彦命 景行大王    倭建命     品陀真若王
         |     |       |       |       |
        ※誅殺   ※出雲国平定  ※出雲国巡幸  ※出雲国建国  ※出雲国巡幸
         ↓     意宇郡制定   |       |       |
        振根命    |       |       |       |
       (杵築の統治者)|       ↓       ↓       ↓ 
               ↓     ・意宇郡司賜る  ・出雲国造賜る ・出雲国造賜る            伊幣根命(飯入根命)ーーーー鵜濡渟命ーーーーー宇迦都々努命ーー来日田錘穂命           (意宇の統治者)      (意宇郡司)   (初代出雲国造)(二代出雲国造)                        (出雲国造の祖) (出雲神主家) (出雲神主家)            櫛御気野命         
       (熊野の統治者)

※杵築大社着工               ※杵築大社竣工
※出雲建子命:杵築大社建立、宮司家も務める


「倭建命」西道・東道建国隊を支えた「建部郷」

 「景行大王」巡幸先の「播磨国」「播磨印南部(いなべ)族」の娘「稲日大郎女」(いないおうのいらつめ)を娶り「倭建命」日本武尊)を儲けた。「倭建命」「吉備国」「建忍山垂根命」(五代「物部氏」)の娘「弟橘姫」を娶り「稚武王」を儲けた。また西道建国の旅を終え近江に戻り、「安国造」の娘「両遅入姫」を娶り「稲依別王」を儲けた。

 「稚武王」「吉備国」「吉備建部郷」を拓き、十四代「仲哀大王」急死に伴い王位継承した「品陀真若王」「出雲国」を巡幸した際に随行し、「杵築」の地(現在の加茂市域で荒神谷遺跡加茂岩倉遺跡がある)に「出雲建部郷」を拓いた。「稲依別王」「淡海国」「近江建部郷」を拓いた。

 「建忍山垂根命」「景行大王」の代に、「天日矛族」一族の「但馬毛理」「吉備国」斡旋入植させた。そして一族の「放橘姫」(はなたちばなひめ)を娶り「弟橘姫」を儲け、「倭建命」に嫁がせた。この事は「倭朝廷」が「天日矛族」を支配下に治めた事と同時に「倭建命」が「物部氏」と結びついて、「倭建命西道・東道建国隊」の裏の主役を「物部氏」に担わせた事を示している。この事から「物部氏」『軍事的氏族である』との異名をとったと考える。

 ちなみに「橘の実」黄金に輝く「実」として珍重され、「金」「銅」を意味し、「金」「銅」「精錬技術」を伝播した「天日矛族」「額田部大加賀美命」「額田部筑箪命」近江蒲生に入植し、「金」「銀」「精錬技術」を伝播した「息長水依姫命」若狭行永に入植している。

 近江建部郷_縮小1convert_20170417171605 吉備建部郷縮小1_convert_20170417171907
    東道建国出発の地「近江建部郷」     西道建国出発の地「吉備建部郷」

 「稲依別王」が拓いた「近江建部郷」は母「両道姫」の本拠地である「安国」(滋賀県野洲市付近)に流れる愛知川中流域にあり、北隣には愛知川下流域に「猪名部族」が居留する「稲部郷」大規模鍛冶工房遺跡がある)があり、南隣には日野川中流域に蒲生「鋳物師郷」がある。「鋳物師郷」「天照大神」御魂代としての「神鏡」鋳造し、また「稲部郷」ではなど「武器」「馬具」を製造する拠点である。「倭建命東道建国隊」は「近江建部郷」を起点として東道建国の旅に出た。

 「稚武王」が拓いた「吉備建部郷」「吉備高原」の「鋳鍛冶族」の拠点「御津」「赤坂」「瀬戸」などと「津山盆地」の「鋳鍛冶族」の拠点「美作」「鏡野」「津山」などの中間にあり、吉備中山の東方に位置する。「倭建命西道建国隊」は「吉備建部郷」を起点として西道建国の旅に出た。

 「鏡野」加々美川上流域の岡山県苫田郡香々美にあり、古代は「香美郷」と云われた。香々美川上流域では「たたら製鉄」が行われ、「鏡作部」が居住していた。「香美郷」「天照大神」御魂代としての「神鏡」鋳造し、また「津山盆地」「吉備高原」ではなどの「武器」「馬具」製造する拠点が多く存在した。

 「稚武王」出雲で拓いた「出雲建部郷」は簸川郡斐伊川町武部荒神谷遺跡加茂岩倉遺跡がある)荒神谷遺跡加茂岩倉遺跡には多量の「銅矛」「銅鐸」埋設された状態で出土した。斐伊川上流域の「雲南」「奥出雲」には多くの製鉄工房拠点が置かれた。

 「建部郷」は周囲に「鋳鍛冶族」の「工房拠点」を控えて、「武器」や「装具」、「馬具」や「神鏡」等を調達、供給をする役割を担う品部(ともべ)を置いて、「建国隊」を支援し、出陣拠点にもなった「朝廷」直轄の施設拠点で、「大和国家」建国上最も重要な施設であった。

 「建部郷」「倭建命」の子孫「建部氏」建部君)が「鋳鍛冶族」統率管理する目的で置かれた「郷」本拠地)である。「建部君」「建部」と云う軍事的「品部」(ともべ)を率いる「倭朝廷」役人である。「倭建命西道・東道建国隊」「天照大神」御魂代としての「神鏡」剣、鎧、兜など「武器」「馬具」など「装備」調達、供給するする為に置かれたものである。また「西道・東道建国隊」出陣基地大王諸国巡幸中継基地ともなった。「建部郷」は古来より西道東道の交通の要衝に置かれ、後には「郡衛」「駅馬」「荘園」が置かれた。「建部」氏社である建部大社「近江建部郷」に坐し、「倭建命」祀られている。

[系譜から見る「倭建命」の出自]

          意富多牟和気命ーー両道入姫
          (安国造の祖)   |
                    |
                    |ーーーーーーー稲依別王ーーーー→近江建部氏
垂仁大王ーーーー⑫景行大王      |      (近江建部郷)
           |        |
           |ーーーーーーー倭建命      稚武王ーーーーー→出雲建部氏
(播磨印南部族)    |      (西道・東道建国隊)(出雲建部郷)
 印南別命ーーーーー稲日大郎女     |        ↑
                    |        |※出雲へ移住
                    |ーーーーーーー稚武彦王ーーーー→吉備建部氏
                    |      (吉備建部郷)
(④物部氏)   (⑤物部氏)     |
 大水口宿禰ーーーー建忍山垂根命    |
           |     |・弟橘姫
           |ーーーーー|
           |     |・大木別垂根命ーーー穂積真津命ーーーー穂積磐弓命
        |・放橘姫     (⑥物部氏)   (初代穂積臣)  (穂積臣)
天日矛族)ー→|                           (吉備国五郡に赴任)
        |・但馬毛理ーーーーー但馬比多詞ーーーー葛城高額姫
         (但馬比那良岐)

「原料銅」調達を担う「出雲建部郷」

 「吉備建部郷」「近江建部郷」「西道・東道建国隊」への「神鏡」「武具」「馬具」などの調達・供給基地として、また出陣基地としての役割が大きいが、「出雲建部郷」「出雲鴨族」保有する多量の「銅矛」「銅鐸」などを「原料銅」として調達を担う「建部」品部)を率いる「出雲建部氏」居留地である。

 この時代は「天日矛族」「精錬技術」伝播したと云えども、銅鉱錫鉱発見銅採掘精錬に至るまで相当の時間を要するため、「原料銅」として目を付けたのが「銅矛」「銅鐸」であった。この「銅矛」「銅鐸」「原料銅」として「神鏡」鋳造した。「原料銅」としての「銅矛」「銅鐸」諸国鏡鋳造所に持ち込まれ、「鉄鋌」「原料鉄」として流通した如く、「銅矛」や「銅鐸」が「原料銅」として流通した。

 諸国鏡鋳造所同一型式「神鏡」鋳造するには「雛形」が必要である。「倭国」笠縫(磯城郡田原本)の地に「物部氏」統率する「鏡作部」居住していた。この地で「神鏡」「雛形」が創られた。この地に居住する「鏡作部」氏神である鏡作坐天照御魂神社には「天照大神」御魂代としての「鏡」鋳造した際の試鋳像鏡雛形)が祭神として祀られている。「朝廷」「物部氏」をして、この「神鏡の雛形」諸国「王家」御用達鋳造所提供して「神鏡」を造らせた。

 十三代「成務大王」の代に、全国の殆どの国が併合され、五十九ケ国を平定し、百十五の「国造」が制定された事から、百柱以上の「神鏡」が鋳造され、諸国の天照大神神社(元伊勢神社)に奉斎されたと考える。

「出雲建子命」がつくる出雲大社

 「出雲国」を語るには出雲大社を外すことは出来ない。出雲大社は伊勢神宮と大きな関わりを持っているのである。十代「崇神大王」の代に、伊勢神宮建立を勧請した「伊勢津彦命」(伊勢地方を治める豪族)は神宮建立の用地として伊勢の宇治山田原を国譲りし、代地として信濃安曇野の地を賜るが、祖神を奉斎祭祀する場として出雲に大社を造営する事を条件としたことに始まる。

 「伊勢津彦命」「朝廷」重臣を務める「物部氏」「神武大王」妃を出した「出雲土師族」や海人「天村雲命」統率する「紀氏忌部」造船造殿の伴部採材の品部)などの建子造殿司あるいは建築司)の協力により伊勢大神宮建立を成し遂げるが、「伊勢津彦命」出雲大社建立勅命を請け、「出雲建子命」賜り伊勢神宮建立に携わった関係氏族総力を挙げて杵築大社建立に臨んだ。

 杵築大社出雲大社改称されたのは明治四年である)は十代「崇神大王」の代に建立が始まり、十二代「景行大王」の代に創建成った。杵築大社竣工し、「出雲国造」が制定されるまでは「伊勢鴨族」「紀の大伴氏族」祖先を祀る斎主(いわいぬし)を託された「出雲建子命」宮司家を務めたが、「景行大王」「倭建命」を伴い「出雲国」巡幸した際、「出雲臣」「宇迦都々努命」「意宇氏」又は「多氏」)が初代「出雲国造」「出雲神主家」賜り、以降「出雲国造」が代々「出雲神主家」を務める様になった。

 「出雲国」の発祥は「倭建命」の「出雲国」建国に始まるが、出雲名称杵築大社建立した「出雲建子命」にあやかって付けられたと考える。「出雲建子命」を賜った「伊勢津彦命」祖先「大幡主命」で、大和桜井出雲郷に居留する「出雲土師族」の子孫「出雲神門臣」と結びついて、子孫に「伊勢鴨部」「紀の大伴氏」の祖「太田命」輩出して、さらに「伊勢丹生氏」と結びついて、伊勢地方の豪族「紀の大伴氏」として君臨し、子孫代々「伊勢津彦命」を務めた。「紀の大伴氏」伊勢神宮杵築大社建立に携わった中心的氏族であった。

 十三代「成務大王」の代に、「倭建命西道・東道建国隊」が「出雲国」に派遣され「出雲国」を建国し、出雲臣の「宇迦都々努命」が初代「出雲国造」を賜り、「出雲国」は「大和国家」に統合された。

 二代「出雲国造」の「来日田錘穂命」の時、十四代「仲哀大王」急死に伴い王位継承した「品陀真若王」が「出雲国」を巡幸した際、創建成った杵築大社を参拝し、西国にも「天照大神」の祭祀の必要を鑑みて「出雲国」に出雲神宮(日沈宮)建立を発願し、日御碕に造営した。この様な事から「出雲国」は「成務大王」の代には、ほゞ「大和国家」に統合されたと云える。


category: (3)鴨王国「出雲国」の国譲り

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天照大神の奉斎と大和国家の統一  

(4)鴨王国「伊勢国」の国譲り

伊勢の先住弥生人

 縄文時代~弥生時代に、「鴨族」が「猿田彦大神」を祖神とする「安曇族」に舟運帯同して九州から「瀬戸内海ルート」で紀伊に至り紀伊半島を南下し志摩半島の伊勢の地に至った。「鴨族」は鳥羽湾に注ぐ加茂川流域に入植し、「安曇族」は的矢湾奥地の現在の磯部町辺りに入植し、製塩や漁猟や稲作を生業とする「伊勢鴨族」として土着した。

 一世紀頃、「吉野丹生族」「高野丹生族」)の一枝「丹生多久豆命」が新しい丹生鉱脈を求め、「中央構造線断層帯」に沿って東進し、紀伊半島東部(現在の多気郡)を縦貫する「多気断層帯」域に入植し、丹生採鉱、精錬生業とした「伊勢丹生族」として土着した。

伊勢の地を開拓した「紀の大伴氏族」

 二世紀頃、四代「懿徳大王」の代に、紀伊太田郷土着した豪族「太田部事代主命」「太田鴨族」)を支配下に治めた海人「加茂氏」族「阿多津奇根命」とする「建甕槌命」「紀の大伴氏族」)は、「中臣氏」族「大御食臣命」「大幡主命」)の娘「幡主賀具呂姫」を娶り、太田系「大伴氏」族「大御食持命」中臣系「大伴氏」族「豊御気主命」」二系統「大伴氏」族輩出した。

 「大御食持命」子息「太田命」紀伊半島東部(現在の三重県)の開拓を始めた。「豊御気主命」の子息「大御気主命」「太田命」所領地・太田郷継承し、太田郷加太津拠点製塩開拓をする二系統の氏族「阿田賀田須命」「磯部氏」塩田開拓を担う)と「建飯賀田須命」「鴨部氏」塩釜開拓を担う)の兄弟輩出した。諸国居留する「磯部」「鴨部」統率して、「紀の国」太田をはじめ「吉備国」児島「播磨国」赤穂「伊勢国」磯部志摩製塩工房塩田塩釜など)を展開した。

 八代「孝元大王」の代に、「磯部氏」「鴨部氏」一枝「伊勢国」入植し、「伊勢磯部」「伊勢鴨部」統率して製塩工房を拓いた。又「太田命」三代孫「彦久良為命」伊勢の地に入植し、伊勢先住弥生人「伊勢丹生族」「伊勢鴨部」「伊勢磯部」支配下に治めて、櫛田川流域以南の伊勢の地を開拓領有し、伊勢の地を支配する豪族「伊勢津彦命」として土着した。

 伊勢先住弥生人縮小1_convert_20170619144325
  伊勢の先住弥生人と所領地:「伊勢丹生族」が「多気」の地に、「紀の大伴氏族」が「度会」の地に、「伊勢鴨部」が   「磯部」の地に入植した。

 余談になるが、「紀の大伴氏」とは「中央の大伴氏」に対して「地方の大伴氏」に当たる。「中央の大伴氏」「紀の国」太田郷支配した「大田田根子命」三輪笠縫邑三輪神主家を賜った)の「大御気持命」支配下にあった「出雲臣(朝廷の大臣)」「出雲土師族」係累である。「紀の大伴氏」「加茂氏」族紀伊半島制海権を賜った「阿多津奇根命」「建飯勝命」支配下にあった「出雲神門臣(三輪神主家の大臣)」「出雲土師族」係累である。

伊勢神宮建立に深く関わった「中臣氏」族

 「中臣氏」始祖「宇佐津臣命」(うさつとみのみこと)は「大田田根子命」「渡来技術者集団」一行舟運帯同して「紀の国」入植した海人族である。「紀の国」太田郷豪族となった「大田田根子命」三輪山「神主家」を賜った時に、共に「朝廷」重臣に迎えられた。三輪山「大王家」祖神「神迎え」する際に、「大田田根子命」「大御気持命」三輪山神主を、「宇佐津臣命」「大御食津臣命」(おおみけつとみのみこと)が「幡」を掲げる丈旗隊を担い、「神迎え神事」を無事果たした事で、「中臣氏」族「大御食津臣命」「大幡主命」称号を賜った。

 娘の「幡主賀具呂姫」「紀の大伴氏」「建甕槌命」に嫁がせ、「紀の大伴氏族」所領地「御食国」として直轄化し、「御食国」掌握管理を担った。

 九代「開化大王」の代に、「朝廷」伊勢の地の支配者「伊勢津彦命」所領地直轄地とし、各「御食国」「元伊勢神宮(社)」に坐す「天照大神」御魂「伊勢大神宮」勧請する為に、「大王家」直轄建設用地を求め、中央の「中臣氏」族(大中臣「相鹿津臣命」(おおかつとみのみこと)を多気郡相可(おおか)に派遣した。

 「相鹿津臣命」「伊勢津彦命」の娘「弥豆佐久良姫」(みずさくらひめ)を娶り、「伊勢津彦命」支配下に治め、伊勢の地(多気地区度会地区)を「御食国」として直轄化すると共に、「伊勢大神宮」建立用地として所領地の一部「宇治山田原」「大王家」直轄地とする事を所望した。「伊勢津彦命」所領地「宇治山田原」建設用地として「大王家」献納上申したため、「伊勢大神宮」建立し、「大神」勧請する一大事業を承った。

 伊勢の地を「御食国」とし、又「伊勢大神宮」建立「天照大神」勧請道筋を付けた「相鹿津臣命」「天照大神」祭祀奉仕したとして「天日別命」称号「伊勢国造」賜り子孫「度会氏」「磯部氏」輩出「度会氏」始祖となった。

 十三代「成務大王」の代に、度会地区居留していた「伊勢津彦命」子孫「度会氏」名乗り、十五代「応神大王」の代に磯部地区居留していた「伊勢鴨部」「伊勢磯部」支配下治め「磯部氏」名乗る様になった。

 「度会氏」度会の地に「伊勢外宮」造営し、諸国「御食国」祭祀されていた「元豊受神社」「伊勢外宮」集結し、一括祭祀出来る様にして、外宮祭祀官(祢宜家)務めた。十五代「応神大王」の代に、神宮所領地磯部地区にも拡大し、「磯部氏」名乗り「度会神主」務める様になった。

[系譜から見る「伊勢の地」を拓いた「紀の大伴氏族」と「伊勢国」の成立ち]
                                 (大中臣)   (大中臣)
                        (大中臣の太祖)|・梨迹臣命ーーーー神聞勝命ーー→
       (大中臣氏の太祖)(大幡主命) |・伊香津臣命ーー|(伊香具氏の祖)
        宇佐津臣命ーーー大御食津臣命ー|        |・臣知人命
       (紀国に入植)-(倭笠縫を管理)|・幡主賀具呂姫
                          |      (太田系大伴氏)(紀伊東部開拓)
(加茂氏)  (紀伊国の制海権)          |     |・大御食持命ーーー太田命ーーー→
天日方奇日方命阿多津奇根命            |     |
         |                |ーーーーー|
         |ーーーーーー建飯勝命      |     |(中臣系大伴氏)(太田郷主継承)
(倭氏)     |       |        |     |・豊御気主命ーーー大御気主命ー→
椎根津彦命ーーー渟名建姫     |        |
                 |ーーーーーーー建甕槌命
                 |      (紀の大伴氏の祖)
                 |
      |・出雲神門臣ーーー出雲沙麻奈姫
出雲土師族ー|
      |・出雲臣ーーーーー出雲鞍山祇姫
                 |      (中央の大伴氏の祖)
太田部事代主ーー鴨美気姫     |ーーーーーーー大部主命
         |       |      (朝廷の大臣)
         |ーーーーーー大御気持命
         |     (三輪笠縫邑の統治者)
        大田田根子命 (三輪神主家)
       (紀国太田郷の豪族)
       (三輪笠縫邑の豪族)
       (三輪神主家)

《①神武大王》 《②綏靖大王》 《③安寧大王》 《④懿徳大王》 《⑤孝昭大王》 《⑥孝安大王》

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
                          (大中臣)
                         |・烏賊津臣命
                |・臣狭山命ーーー|(伊勢国に派遣)
                |        |・天見通命ーーー・伊勢中臣氏
                |(天日別命)   (度会神主の祖、伊勢中臣氏)
  (大中臣)  (大中臣)  |(神宮建立勧請) (大幡主命)  (伊勢神宮宮司家)
ーー久志宇賀主命国摩大鹿島命ー|・相鹿津臣命   (度会氏の祖)|・宇治土公家
                   |     |・大若子命ーー|(伊勢神宮神主家)
                   |ーーーーー|       |・神宮神主家
                   |     |(信濃安曇野開拓)
                |・弥豆佐久良姫 |・弟若子命ーーー・信濃中臣氏
ーー彦田都久禰命彦楯津命ーーー|
                |(伊勢津彦命
  (製塩氏族ー塩釜開拓)   |(宇治山田原献納)
|・建飯賀田須命(伊勢鴨部)  |・彦久良為命ーーーーーーーーーーー・度会氏
|                (伊勢国の豪族)
|・阿田賀田須命(伊勢磯部)
  (製塩氏族ー塩田開拓)
                 ※天照大神創生
                    ※御食国に元伊勢神宮建立
                       ※御杖代による天照大神の祭祀
                          ※伊勢神宮建立発願と勅願
                             ※伊勢神宮落成、勧請
                                ※伊勢神宮斎王制定

                          (①御杖代)   (②御杖代)
                           豊鍬入姫命ーーー→倭姫命
                                   (①伊勢神宮斎王)

《⑦孝霊大王》 《⑧孝元大王》 《⑨開化大王》  《⑩崇神大王》  《⑪垂仁大王》 《⑫景行大王》

大神宮建設に携わった氏族達

 九代「開化大王」の代から大神宮建立発願され、十代「崇神大王」勅願により伊勢神宮建設が始まったが、国家威信を懸けた大神宮建立勧請主導した「天日別命」一族「中臣氏」族ネットワークを最大限駆使して人材資材技術知識開拓力など総力を挙げて神宮建設に当たり、十一代「垂仁大王」の代に創建成り、勧請された。大神宮造営は実に三代の「大王」に亘って成し遂げられた一大事業であった。

 国家の威信を懸けた壮大な大神宮の建設には膨大な資材や人材や優れた先進の技術が必要であった。ではどんな氏族がこの事業に携わったのか?

伊勢の地を治めた豪族「紀の大伴氏」「伊勢津彦命」神宮建設用地宇治山田原寄進して神宮建立を  勧請した。

「御食国政申大夫」を務めた「物部氏」全国から物資調達を行い、「物部氏」海部役を務める海人  「安日彦族」「阿部氏」の祖)は物資舟運を担った。

「出雲土師族」土師結集して建設用地造成基壇基礎外構道路石積などの建設に携わ  った。

「紀忌部氏」採材の品部として木材石材などの建設用材熊野木曽から調達した。

「紀海部氏」造船造殿の忌部として大神宮造殿河川港湾工事を担った。

 大神宮建設主導したのは「天日別命」二人息子達で、「大若子命」「建興束命」)は神宮建立、勧請した氏族として、神宮建設して祭祀する五大夫「阿部臣」の建沼川別命「和珥氏」の彦国押命「物部氏」の十市根命「大伴氏」の建日命「中臣氏」の大鹿島命)の一員に任じられ、建設最高責任者を務めた。大神宮全体構想グランドデザイン)と宮地造成工事を担い、落慶祭事には神主を務め、「幡」を掲げて「神迎え」を執り行い「大幡主命」称号を賜った。

 子孫「宇治土公家」(代々伊勢神宮宮司家を務める)と「神宮神主家」(代々伊勢神宮神主を務める)が祭祀を担う様になった。そして十三代「成務大王」の代に、子孫「度会氏」度会の地に外宮造営し、代々外宮祭祀官祢宜家)を務める様になった。

 「弟若子命」献納宮地代地として賜った信濃安曇野の地へ磯部を伴って移住し、伊勢神宮「御食地」として開拓し、神宮豊受神宮神宮の食料を司る宮)に寄進し、「信濃中臣氏」として信濃「御食国」掌握管理した。さらに「信濃国」をはじめ北陸国「御食国」として開拓を進め「信濃国造」に任じられた。子孫「信濃磯部氏」輩出した。

 「弟若子命」はさらに東北地方開拓に乗り出すが、さらに南下「総武国」相模原開拓し、「総武国造」となった。又ここを起点東北移動東北地方開拓を進めた。最終的に郡山盆地安積に至り水田耕作展開する。この地は縄文時代に、「鴨族」舟運帯同した「安曇族」新潟阿賀入植し、さらに阿賀野川遡上会津入植猪苗代湖一帯を開拓し、水田耕作を営んだ。この猪苗代湖から流水導入水田可耕地を拓いたものである。現在の安積疎水後世本格的に拓かれたものである。余談になるが「中臣氏」子孫「奥州藤原氏」隆盛「弟若子命」足跡になっていると思われる。

 「天日別命」兄弟「臣狭山命(とみさやまのみこと)」中央の「中臣氏」)の子息「天見通命」(あまのみとおりのみこと)が「伊勢国」派遣され、度会郡大貫本拠地とし「伊勢中臣氏」として伊勢「御食国」掌握管理した。又「天照大神」祭祀奉仕したとして「天見通命」神名を賜った。

 十三代「成務大王」の代に、「天見通命」三代孫「大阿禮命」「荒木田氏」を賜り、内宮祭祀官(祢宜家)に任じられた。十五代「応神大王」の代に、五代孫「最上命」(いとがみのみこと)が荒木田神主を賜った。以降中央の「中臣氏」伊勢神宮神主を代々務める様になった。

伊勢神宮と出雲大社の関わり

 「伊勢津彦命」伊勢の地の宇治山田原「大王家」国譲りしたが、用地問題だけでは解決できない一族祖神奉斎祭祀問題懸案となった。神宮周辺居留する「度会氏」伊勢神宮神主宮司に任ぜられ、「天照大神」祭祀する立場になり、自族祖神「大国主命」「須佐之男命」)を立って祭祀する事が許されない立場になり、そこで伊勢居住する「度会氏」係累氏族聖地として「出雲国」大社を築き、自族それぞれの祖神祭祀する事を国譲り条件とした。

 「朝廷」出雲巨大神殿を建て、「大国主命」「須佐之男命」奉斎する事を許した。但し彼らの人祖神たる「須佐之男命」「天照大神」創生の際に、荒ぶる神として忌門鬼門)に封印されたため正面きって奉斎する事をは許されず、神殿正面から見えない様に仕切られた奥(忌門)奉斎された。

 伊勢居住者(神々)聖地出向祭祀を行える様になった。旧暦十一月には気兼ねなく堂々と聖地出向いて祭祀をしたために伊勢では神々不在になり「神無月」と云われ、聖地では祭祀者集まるので「神有月」と云われる様になった。

「天照大神」を求心力とする「国づくり」

 天祖神「天照大神」は何時、誰によって、何のために創生されたのか?

 「日本書紀」によれば『十代「崇神大王」の代に、天祖神「天照大神」を宮中から笠縫邑に移し、「豊鍬入姫」に託して祀った。この斎宮を「元伊勢神宮」と云う』とあることから、笠縫邑に移して祀った「天照大神」を祀る斎宮第一号「元伊勢神宮(社)」であったと云える。

 「倭国」笠縫邑「崇神大王」の代より二世紀の二代「綏靖大王」の代に、「大王家」直轄地とされた。次いで四代「懿徳大王」の代から九代「開化大王」の代にかけて「但馬国」「紀の国」、「伊賀国」、「淡海国」、「美濃国」、「尾張国」、「伊勢国」など七か国「御食国」として支配されたが、「御食国」内に「天照大神」祭祀する事は無かった。

 八代「孝元大王」の代から九代「開化大王」の代にかけて西国平定丹波道平定の為に「山陽道将軍」「丹波道主命」を置いて、西国丹波道諸国平定支配下に治めた。しかし諸国抵抗は激しく、一筋縄ではいかず「神の力」を借りて諸国併合を行うことを余儀なくされた。この様な事から推察すると、八代「孝元大王」の代もしくは九代「開化大王」の代「中臣氏」主導の下で天祖神「天照大神」創生され、「天照大神」天声求心力とする「国づくり」が始められたと考える。

 「天照大神」天声とは『「大和国家」は天祖神「天照大神」が治める国であり、「天照大神」の末裔である「大王」が「天照大神」の神勅の下で永久に統治を行い、全ての政治は神事をもって行う』というものである。天祖神「天照大神」「天照大神を求心力とする国づくり」の為に創起されたものである。

 以降「天照大神を求心力とする国づくり」が進められたが、平定した諸国斎宮(元伊勢神宮)建立し、「天照大神」祭祀した。又過去に治めて来た「御食国」にも、遡って「天照大神神宮」建立祭祀した。

 「崇神大王」の代から「天照大神を求心力とする国づくり」本格的始まるが、「御食国」として併合した諸国「天照大神」祀る「天照大神神宮」及び諸国統治した豪族祖神祀る「大国魂神社」建立して祭祀してきた。「斎主」「大王」が務めるが、「斎宮」増加してくると「大王」がまわらず「御杖代」代理)に託し祭祀する事が通例となった。

 「崇神大王」の娘「豊鍬入姫」初代「御杖代」に任じられ、二代御杖代「倭姫命」(十一代「垂仁大王」の娘)に引継ぐまで、巡幸した五カ国六社元伊勢神宮)、巡幸滞在期間八年に及ぶ。「倭姫命」巡幸した六カ国十九社元伊勢神宮)、巡幸滞在期間四年以上に及ぶ。

 因みに、「御食国」祀られた「元伊勢神宮(社)」「御杖代」巡幸した順番巡幸「御食国」化がなされた順番にほゞ等しい)を以下に記す。

「倭国」の笠縫邑→②「但馬国」の吉佐宮→③「倭国」の伊豆加志本宮→④「紀の国」の名草浜宮→⑤「紀の国」吉備名方浜→⑥「倭国」三輪の御室峰上宮→⑦「倭国」宇陀の秋宮→⑧「倭国」宇陀の佐々波多宮→⑨「伊賀国」の隠の市守の宮→⑩「伊賀国」の穴穂宮→⑪「伊賀国」の敢都美恵宮→⑫「淡海国」の甲可日雲宮→⑬「淡海国」の坂田宮→⑭「美濃国」の伊久良河宮→⑮「尾張国」の中島宮→⑯「尾張国」の桑名野代宮→⑰「伊勢国」の鈴鹿小山宮→⑱「伊勢国」の阿佐加藤方片樋宮→⑲「伊勢国」の飯野高宮→⑳「伊勢国」の佐々牟江宮→㉑「伊勢国」の滝原宮→㉒「伊勢国」の伊蘇宮→㉓「伊勢国」の皇大神宮

 第一号「御食国」である笠縫邑桧原神社桧原神社笠縫邑「元伊勢神宮(社)」比定される)を出発点として、他の「御食国」巡幸祭祀順に行われるが、増え続ける「御食国」巡幸祭祀二代に亘る「御杖代」「豊鍬入姫」「倭姫命」)に託して、伊勢神宮建立されるまで続けられたが、伊勢神宮建立された後「倭姫命」伊勢神宮「斎王」に任じられ、「御杖代」による巡幸祭祀終焉を迎えた。その事が平安時代以降の伊勢神宮斎宮制度発端となった。

 伊勢大神宮建立には二つの背景があったと云える。第一「天照大神」求心力とする中央集権による「大和国家」統合実現こそが十代「崇神大王」強い思いであった事。第二に、諸国散在する「天照大神」を祀る「元伊勢神宮」「伊勢大神宮」一堂に集め、「斎王制度」
「倭姫命」初代「斎王」に任じられた)を定め、一元祭祀を行う事で「天照大神を求心力とする国づくり」具現する事であった。

 八か国、二十か所「元伊勢神宮」に坐す「天照大神」巡幸祭祀する「御杖代」ご苦労解消すると同時に、「王権」諸国巡幸祭祀すると云う慣例を改め、「伊勢大神宮」に坐す天祖神「天照大神」によって天下統治されていると云う姿具現化する事で、「天照大神を求心力とする国づくり」思想顕示し、より一層鮮明にすることが大願であった。

 この「崇神大王」の強い思いを汲んだのが「中臣氏」族で「伊勢大神宮」建立を創起し、主導したと考える。

 余談になるが、初代「神武大王」の代から「物部氏」と共に「倭王権」中枢に在った「中臣氏」族は四代「懿徳大王」の代に、「紀の大伴氏族」(伊勢の地を開拓して豪族となった)を支配下に治め、伊勢の地を「御食国」化し、掌握管理する様になり、伊勢大神宮建立の礎をつくり、伊勢大神宮の運営を担った。

 「中臣氏」族初期「倭朝廷」重臣を務め、「御食国」開拓掌握管理を行い、献納物収納管理する「屯倉」運営などを担っていたが、二代「綏靖大王」の代に、三輪山「大王家」祖神「神迎え神事」に携わり、「大幡主命」称号を賜った事を契機に、九代「開化大王」の代に、一枝造墓集団「和珥氏」拠点狭山派遣され、「大王家」巨大墳墓「神迎え神事」を担ってきた。そして伊勢大神宮建立後に「天照大神」「神迎え神事」盛大に執り行い、再び「大幡主命」称号を賜った。

 「中臣氏」族は「幡」を掲げて「神迎え」を行った事で「大幡主命」の称号を賜り、「神迎え神事」には欠かせない存在であった事が伺える。伊勢大神宮建立後に神主や宮司に任ぜられ、伊勢大神宮の運営を担う様になった。これを契機に中央の「中臣氏」は「祭祀族」としての役割を強めて行った。

 「中臣氏」族「倭王権」初期段階から中枢に在り、「国家」を動かす原動力となり、「王権」「支えた」と云うより「牛耳った」と云っても過言ではない。「中臣氏」については「中臣氏考」として別途ブログ投稿するつもりです。


category: (4)鴨王国「伊勢国」の国譲り

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