好々彦の神代文化考

神話と系譜と足跡を元に”古代人の生き様”を読み解き、新しい古代史の視点を提案する。きっとあなたの古代史観が変わる!                                                              

天照大神の奉斎と大和国家の統一  

(3)鴨王国「出雲国」の国譲り

青銅器を掲げる出雲の「大国主命」

 縄文時代の出雲地方は中国の「青銅器文化」の影響を色濃く受けた渡来先住民である「鴨族」が居留する出雲地方に新羅系民族(「鋳鍛冶技術」を持った「額田部族」)が入植し、一大文化圏「鴨王国」を築いた。

 出雲地方に渡来した「鴨族」は青銅器を携えてやって来た。青銅器鉄器とほゞ同時期に中国から朝鮮半島を経由して日本に伝わった。青銅器との合金であり、鉄鉱石を精錬する時に同時に産出することが多い金属であるが、「鴨族」が持参したものは中国伝来の武器としての「銅剣」や「銅矛」で、銅鉱採掘精錬技術を持たないこの時代に於いては「原料銅」として使われ、当時の「鋳鍛冶技術」を駆使して祭器としての「銅矛」や「銅鐸」に作り変えられた。

 青銅器の「銅剣」、「銅矛」、「銅戈」(どうか)、「銅槍」、「銅斧」など実用の武器から、戦争のなかった出雲地方では祭祀用途の道具に作り変えた。「銅剣」「銅矛」「銅戈」平形、広形へと変化し、長尺の木柄の先に取り付け、銅身首部に紐状の房を取り付け、儀式用の幟旗(のぼりはた)や桙立てとして活用した。また「銅鐸」は「釣鐘」や「吊鉦」(つりかね)として活用した。

 朝賀儀礼入朝儀礼戴冠儀礼自然恩恵感謝豊作祈願感謝冠婚葬儀などの祭事儀式の場の入場行進で掲揚したり、祭場の正殿脇の幡台などに掲揚した。本来の用途から変化し、「銅矛」や「銅鐸」は「幡」や「釣鐘」や「吊鉦」などに変わった。

 「出雲鴨族」が創り上げた「青銅器文化」は「武器」を「祭器」に変化させ、祖先の威徳を表徴したり、儀礼祭祀などの入場行進で携行表徴したり、殿前に旗立をして表徴をする儀礼祭祀用の仗旗(じょうき)として「銅矛」を鉾立(旗立)したのである。

 出雲地方神庭荒神谷遺跡加茂岩倉遺跡で多量に祭祀に使ったであろう「中細、広形銅矛」「銅鐸」が整然と並べられた状態で出土している。この異様なまでの光景は何を意味しているのか?また土中に埋設した真相は何か?

 四世紀頃(九代「開化大王」の代)、新しい「製鉄技術」を持った「天日矛族」「物部氏」斡旋により、製鉄王国「吉備国」に入植し、「吉備国」「鋳鍛冶族」と共に比婆道後山大山から流出する良質な砂鉄を求めて「吉備→出雲」ルートや「吉備→大山」ルートを開拓出雲地方に進出し、斐伊川上流域奥出雲雲南に、伯太川流域印賀安来に、日野川流域日野江府伯耆に、製鉄拠点を設けて居留地とした。

「天日矛族」と吉備の「鋳鍛冶族」は出雲地方に進出し、縄文先住民(「鴨族」や「額田部族」)と懐柔し、共に製鉄王国「出雲王国」を築いた。

「出雲国」を建国した「倭建命」

 「出雲王国」は当時「出雲」と云う名称はなく「杵築」(きづき)、「意宇」(おう)、「熊野」(いや→語源は猪野、鋳谷)などの地名で呼ばれていた。「杵築」は現在の加茂市を中心とした地域で、この地を治める豪族「振根命」が統治し、「意宇」は現在の安来市から松江市にかけた地域で、この地を治める豪族「伊幣根命」「振根命」の弟)が統治し、「熊野」「杵築神庭」裏庭(僻地)に当たり製鉄工房が多くある雲南地方で、この地を治める豪族「櫛御気野命」が統治していた。

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       「出雲王国」を築いた出雲地方の豪族の勢力図

 十一代「垂仁大王」の代に、諸国平定のために十代「崇神大王」王子「建沼河別命」(「西国道、東国道将軍」)と「若建吉備津彦命」(二代目「吉備津彦命」)が「出雲国」に派遣された。「杵築」は暴れ川で川筋が定まらない斐伊川の河口付近に位置するが、良質な砂鉄を産する魅力的な土地柄であり、「倭王権」は支配下に治めるに当たって、「振根命」の抵抗が激しく、誅殺を余儀なくされた。「杵築」裏庭に当たるが製鉄工房が多く置かれた「熊野」と共に「意宇」に併合され「意宇郡」が制定された。

 「建沼河別命」と「若建吉備津彦命」の「西国建国隊」一行は「倭朝廷」の威信を表徴する「幡」を高々と掲げて「出雲王国」に入陣したのである。「杵築」に居留する「振根命」一族は、その威を畏れて一族の「表徴」は地下深くに埋設され、後には「天照大神」の「御魂代」としての「神鏡」の「原料銅」として供出する事になる。これが国譲りによって「銅矛」や「銅鐸」が地下に潜った真相である。

 十二代「景行大王」の代に、「景行大王」「播磨国」「出雲国」巡幸する際に、十六歳になった王子「倭建命」日本武尊)が「出雲国」随行し、「西道・東道建国隊」デビューを飾るが、西道建国に続いて東道建国の旅を挙行するが三十二歳の若さで没したと云う。

 「景行大王」と「倭建命」が「出雲国」を巡幸した際、「意宇郡」を統治する「鵜濡渟命」(うじぬまのみこと)は「意宇郡司」を賜り、「出雲国造」の祖となる。「景行大王」の代に、杵築大社創建なるが、十三代「成務大王」の代に、「倭建命」が「出雲国」を建国し、「鵜濡渟命」の子「宇迦都々努命」が初代「出雲国造」を賜り、以降「出雲国造」が代々「出雲神主家」を務める様になる。それまでは「出雲建子命」「宮司家」を務めた。十四代「仲哀大王」の代に、「品陀真若王」(仲哀大王急死に伴い王位継承した)が「出雲国」を巡幸した際、「宇迦都々努命」の子「来日田錘穂命」が二代目「出雲国造」を賜った。斐伊川の恵(良質な砂鉄)でもたらした豊穣(鉄製品など)を「朝廷」に貢納する「屯倉」を「意宇郡」に置いた。「意宇郡」に坐す熊野大社祭神「櫛御気野命」であり、この「屯倉」熊野大社ルーツであった可能性が大きい。こうして「出雲国」「倭朝廷」併合された。

 熊野大社と後に建立された杵築大社は共に「出雲国」一ノ宮であるが、熊野大社が筆頭大社である。その理由は、熊野大社「出雲鴨族」祖神大国主命)を祀り杵築大社「伊勢鴨族」祖神大国主命)を祀っているからである。

[系譜で見る初期「出雲国」の成り立ち]
                                                                                       [⑭仲哀大王] 急死
[⑩崇神大王] [⑪垂仁大王]       [⑫景行大王] [⑬成務大王] [⑭品陀真若王] 継承 

        建沼河別命・若建吉備津彦命 景行大王    倭建命     品陀真若王
         |     |       |       |       |
        ※誅殺   ※出雲国平定  ※出雲国巡幸  ※出雲国建国  ※出雲国巡幸
         ↓     意宇郡制定   |       |       |
        振根命    |       |       |       |
       (杵築の統治者)|       ↓       ↓       ↓ 
               ↓     ・意宇郡司賜る  ・出雲国造賜る ・出雲国造賜る            伊幣根命(飯入根命)ーーーー鵜濡渟命ーーーーー宇迦都々努命ーー来日田錘穂命           (意宇の統治者)      (意宇郡司)   (初代出雲国造)(二代出雲国造)                        (出雲国造の祖) (出雲神主家) (出雲神主家)            櫛御気野命         
       (熊野の統治者)

※杵築大社着工               ※杵築大社竣工
※出雲建子命:杵築大社建立、宮司家も務める


「倭建命」西道・東道建国隊を支えた「建部郷」

 「景行大王」巡幸先の「播磨国」「播磨印南部(いなべ)族」の娘「稲日大郎女」(いないおうのいらつめ)を娶り「倭建命」日本武尊)を儲けた。「倭建命」「吉備国」「建忍山垂根命」(五代「物部氏」)の娘「弟橘姫」を娶り「稚武王」を儲けた。また西道建国の旅を終え近江に戻り、「安国造」の娘「両遅入姫」を娶り「稲依別王」を儲けた。

 「稚武王」「吉備国」「吉備建部郷」を拓き、十四代「仲哀大王」急死に伴い王位継承した「品陀真若王」「出雲国」を巡幸した際に随行し、「杵築」の地(現在の加茂市域で荒神谷遺跡加茂岩倉遺跡がある)に「出雲建部郷」を拓いた。「稲依別王」「淡海国」「近江建部郷」を拓いた。

 「建忍山垂根命」「景行大王」の代に、「天日矛族」一族の「但馬毛理」「吉備国」斡旋入植させた。そして一族の「放橘姫」(はなたちばなひめ)を娶り「弟橘姫」を儲け、「倭建命」に嫁がせた。この事は「倭朝廷」が「天日矛族」を支配下に治めた事と同時に「倭建命」が「物部氏」と結びついて、「倭建命西道・東道建国隊」の裏の主役を「物部氏」に担わせた事を示している。この事から「物部氏」『軍事的氏族である』との異名をとったと考える。

 ちなみに「橘の実」黄金に輝く「実」として珍重され、「金」「銅」を意味し、「金」「銅」「精錬技術」を伝播した「天日矛族」「額田部大加賀美命」「額田部筑箪命」近江蒲生に入植し、「金」「銀」「精錬技術」を伝播した「息長水依姫命」若狭行永に入植している。

 近江建部郷_縮小1convert_20170417171605 吉備建部郷縮小1_convert_20170417171907
    東道建国出発の地「近江建部郷」     西道建国出発の地「吉備建部郷」

 「稲依別王」が拓いた「近江建部郷」は母「両道姫」の本拠地である「安国」(滋賀県野洲市付近)に流れる愛知川中流域にあり、北隣には愛知川下流域に「猪名部族」が居留する「稲部郷」大規模鍛冶工房遺跡がある)があり、南隣には日野川中流域に蒲生「鋳物師郷」がある。「鋳物師郷」「天照大神」御魂代としての「神鏡」鋳造し、また「稲部郷」ではなど「武器」「馬具」を製造する拠点である。「倭建命東道建国隊」は「近江建部郷」を起点として東道建国の旅に出た。

 「稚武王」が拓いた「吉備建部郷」「吉備高原」の「鋳鍛冶族」の拠点「御津」「赤坂」「瀬戸」などと「津山盆地」の「鋳鍛冶族」の拠点「美作」「鏡野」「津山」などの中間にあり、吉備中山の東方に位置する。「倭建命西道建国隊」は「吉備建部郷」を起点として西道建国の旅に出た。

 「鏡野」加々美川上流域の岡山県苫田郡香々美にあり、古代は「香美郷」と云われた。香々美川上流域では「たたら製鉄」が行われ、「鏡作部」が居住していた。「香美郷」「天照大神」御魂代としての「神鏡」鋳造し、また「津山盆地」「吉備高原」ではなどの「武器」「馬具」製造する拠点が多く存在した。

 「稚武王」出雲で拓いた「出雲建部郷」は簸川郡斐伊川町武部荒神谷遺跡加茂岩倉遺跡がある)荒神谷遺跡加茂岩倉遺跡には多量の「銅矛」「銅鐸」埋設された状態で出土した。斐伊川上流域の「雲南」「奥出雲」には多くの製鉄工房拠点が置かれた。

 「建部郷」は周囲に「鋳鍛冶族」の「工房拠点」を控えて、「武器」や「装具」、「馬具」や「神鏡」等を調達、供給をする役割を担う品部(ともべ)を置いて、「建国隊」を支援し、出陣拠点にもなった「朝廷」直轄の施設拠点で、「大和国家」建国上最も重要な施設であった。

 「建部郷」「倭建命」の子孫「建部氏」建部君)が「鋳鍛冶族」統率管理する目的で置かれた「郷」本拠地)である。「建部君」「建部」と云う軍事的「品部」(ともべ)を率いる「倭朝廷」役人である。「倭建命西道・東道建国隊」「天照大神」御魂代としての「神鏡」剣、鎧、兜など「武器」「馬具」など「装備」調達、供給するする為に置かれたものである。また「西道・東道建国隊」出陣基地大王諸国巡幸中継基地ともなった。「建部郷」は古来より西道東道の交通の要衝に置かれ、後には「郡衛」「駅馬」「荘園」が置かれた。「建部」氏社である建部大社「近江建部郷」に坐し、「倭建命」祀られている。

[系譜から見る「倭建命」の出自]

          意富多牟和気命ーー両道入姫
          (安国造の祖)   |
                    |
                    |ーーーーーーー稲依別王ーーーー→近江建部氏
垂仁大王ーーーー⑫景行大王      |      (近江建部郷)
           |        |
           |ーーーーーーー倭建命      稚武王ーーーーー→出雲建部氏
(播磨印南部族)    |      (西道・東道建国隊)(出雲建部郷)
 印南別命ーーーーー稲日大郎女     |        ↑
                    |        |※出雲へ移住
                    |ーーーーーーー稚武彦王ーーーー→吉備建部氏
                    |      (吉備建部郷)
(④物部氏)   (⑤物部氏)     |
 大水口宿禰ーーーー建忍山垂根命    |
           |     |・弟橘姫
           |ーーーーー|
           |     |・大木別垂根命ーーー穂積真津命ーーーー穂積磐弓命
        |・放橘姫     (⑥物部氏)   (初代穂積臣)  (穂積臣)
天日矛族)ー→|                           (吉備国五郡に赴任)
        |・但馬毛理ーーーーー但馬比多詞ーーーー葛城高額姫
         (但馬比那良岐)

「原料銅」調達を担う「出雲建部郷」

 「吉備建部郷」「近江建部郷」「西道・東道建国隊」への「神鏡」「武具」「馬具」などの調達・供給基地として、また出陣基地としての役割が大きいが、「出雲建部郷」「出雲鴨族」保有する多量の「銅矛」「銅鐸」などを「原料銅」として調達を担う「建部」品部)を率いる「出雲建部氏」居留地である。

 この時代は「天日矛族」「精錬技術」伝播したと云えども、銅鉱錫鉱発見銅採掘精錬に至るまで相当の時間を要するため、「原料銅」として目を付けたのが「銅矛」「銅鐸」であった。この「銅矛」「銅鐸」「原料銅」として「神鏡」鋳造した。「原料銅」としての「銅矛」「銅鐸」諸国鏡鋳造所に持ち込まれ、「鉄鋌」「原料鉄」として流通した如く、「銅矛」や「銅鐸」が「原料銅」として流通した。

 諸国鏡鋳造所同一型式「神鏡」鋳造するには「雛形」が必要である。「倭国」笠縫(磯城郡田原本)の地に「物部氏」統率する「鏡作部」居住していた。この地で「神鏡」「雛形」が創られた。この地に居住する「鏡作部」氏神である鏡作坐天照御魂神社には「天照大神」御魂代としての「鏡」鋳造した際の試鋳像鏡雛形)が祭神として祀られている。「朝廷」「物部氏」をして、この「神鏡の雛形」諸国「王家」御用達鋳造所提供して「神鏡」を造らせた。

 十三代「成務大王」の代に、全国の殆どの国が併合され、五十九ケ国を平定し、百十五の「国造」が制定された事から、百柱以上の「神鏡」が鋳造され、諸国の天照大神神社(元伊勢神社)に奉斎されたと考える。

「出雲建子命」がつくる出雲大社

 「出雲国」を語るには出雲大社を外すことは出来ない。出雲大社は伊勢神宮と大きな関わりを持っているのである。十代「崇神大王」の代に、伊勢神宮建立を勧請した「伊勢津彦命」(伊勢地方を治める豪族)は神宮建立の用地として伊勢の宇治山田原を国譲りし、代地として信濃安曇野の地を賜るが、祖神を奉斎祭祀する場として出雲に大社を造営する事を条件としたことに始まる。

 「伊勢津彦命」「朝廷」重臣を務める「物部氏」「神武大王」妃を出した「出雲土師族」や海人「天村雲命」統率する「紀氏忌部」造船造殿の伴部採材の品部)などの建子造殿司あるいは建築司)の協力により伊勢大神宮建立を成し遂げるが、「伊勢津彦命」出雲大社建立勅命を請け、「出雲建子命」賜り伊勢神宮建立に携わった関係氏族総力を挙げて杵築大社建立に臨んだ。

 杵築大社出雲大社改称されたのは明治四年である)は十代「崇神大王」の代に建立が始まり、十二代「景行大王」の代に創建成った。杵築大社竣工し、「出雲国造」が制定されるまでは「伊勢鴨族」「紀の大伴氏族」祖先を祀る斎主(いわいぬし)を託された「出雲建子命」宮司家を務めたが、「景行大王」「倭建命」を伴い「出雲国」巡幸した際、「出雲臣」「宇迦都々努命」「意宇氏」又は「多氏」)が初代「出雲国造」「出雲神主家」賜り、以降「出雲国造」が代々「出雲神主家」を務める様になった。

 「出雲国」の発祥は「倭建命」の「出雲国」建国に始まるが、出雲名称杵築大社建立した「出雲建子命」にあやかって付けられたと考える。「出雲建子命」を賜った「伊勢津彦命」祖先「大幡主命」で、大和桜井出雲郷に居留する「出雲土師族」の子孫「出雲神門臣」と結びついて、子孫に「伊勢鴨部」「紀の大伴氏」の祖「太田命」輩出して、さらに「伊勢丹生氏」と結びついて、伊勢地方の豪族「紀の大伴氏」として君臨し、子孫代々「伊勢津彦命」を務めた。「紀の大伴氏」伊勢神宮杵築大社建立に携わった中心的氏族であった。

 十三代「成務大王」の代に、「倭建命西道・東道建国隊」が「出雲国」に派遣され「出雲国」を建国し、出雲臣の「宇迦都々努命」が初代「出雲国造」を賜り、「出雲国」は「大和国家」に統合された。

 二代「出雲国造」の「来日田錘穂命」の時、十四代「仲哀大王」急死に伴い王位継承した「品陀真若王」が「出雲国」を巡幸した際、創建成った杵築大社を参拝し、西国にも「天照大神」の祭祀の必要を鑑みて「出雲国」に出雲神宮(日沈宮)建立を発願し、日御碕に造営した。この様な事から「出雲国」は「成務大王」の代には、ほゞ「大和国家」に統合されたと云える。


category: (3)鴨王国「出雲国」の国譲り

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