好々彦の神代文化考

神話と系譜と足跡を元に”古代人の生き様”を読み解き、新しい古代史の視点を提案する。きっとあなたの古代史観が変わる!                                                              

天照大神の奉斎と大和国家の統一  

(4)鴨王国「伊勢国」の国譲り

伊勢の先住弥生人

 縄文時代~弥生時代に、「鴨族」が「猿田彦大神」を祖神とする「安曇族」に舟運帯同して九州から「瀬戸内海ルート」で紀伊に至り紀伊半島を南下し志摩半島の伊勢の地に至った。「鴨族」は鳥羽湾に注ぐ加茂川流域に入植し、「安曇族」は的矢湾奥地の現在の磯部町辺りに入植し、製塩や漁猟や稲作を生業とする「伊勢鴨族」として土着した。

 一世紀頃、「吉野丹生族」「高野丹生族」)の一枝「丹生多久豆命」が新しい丹生鉱脈を求め、「中央構造線断層帯」に沿って東進し、紀伊半島東部(現在の多気郡)を縦貫する「多気断層帯」域に入植し、丹生採鉱、精錬生業とした「伊勢丹生族」として土着した。

伊勢の地を開拓した「紀の大伴氏族」

 二世紀頃、四代「懿徳大王」の代に、紀伊太田郷土着した豪族「太田部事代主命」「太田鴨族」)を支配下に治めた海人「加茂氏」族「阿多津奇根命」とする「建甕槌命」「紀の大伴氏族」)は、「中臣氏」族「大御食臣命」「大幡主命」)の娘「幡主賀具呂姫」を娶り、太田系「大伴氏」族「大御食持命」中臣系「大伴氏」族「豊御気主命」」二系統「大伴氏」族輩出した。

 「大御食持命」子息「太田命」紀伊半島東部(現在の三重県)の開拓を始めた。「豊御気主命」の子息「大御気主命」「太田命」所領地・太田郷継承し、太田郷加太津拠点製塩開拓をする二系統の氏族「阿田賀田須命」「磯部氏」塩田開拓を担う)と「建飯賀田須命」「鴨部氏」塩釜開拓を担う)の兄弟輩出した。諸国居留する「磯部」「鴨部」統率して、「紀の国」太田をはじめ「吉備国」児島「播磨国」赤穂「伊勢国」磯部志摩製塩工房塩田塩釜など)を展開した。

 八代「孝元大王」の代に、「磯部氏」「鴨部氏」一枝「伊勢国」入植し、「伊勢磯部」「伊勢鴨部」統率して製塩工房を拓いた。又「太田命」三代孫「彦久良為命」伊勢の地に入植し、伊勢先住弥生人「伊勢丹生族」「伊勢鴨部」「伊勢磯部」支配下に治めて、櫛田川流域以南の伊勢の地を開拓領有し、伊勢の地を支配する豪族「伊勢津彦命」として土着した。

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  伊勢の先住弥生人と所領地:「伊勢丹生族」が「多気」の地に、「紀の大伴氏族」が「度会」の地に、「伊勢鴨部」が   「磯部」の地に入植した。

 余談になるが、「紀の大伴氏」とは「中央の大伴氏」に対して「地方の大伴氏」に当たる。「中央の大伴氏」「紀の国」太田郷支配した「大田田根子命」三輪笠縫邑三輪神主家を賜った)の「大御気持命」支配下にあった「出雲臣(朝廷の大臣)」「出雲土師族」係累である。「紀の大伴氏」「加茂氏」族紀伊半島制海権を賜った「阿多津奇根命」「建飯勝命」支配下にあった「出雲神門臣(三輪神主家の大臣)」「出雲土師族」係累である。

伊勢神宮建立に深く関わった「中臣氏」族

 「中臣氏」始祖「宇佐津臣命」(うさつとみのみこと)は「大田田根子命」「渡来技術者集団」一行舟運帯同して「紀の国」入植した海人族である。「紀の国」太田郷豪族となった「大田田根子命」三輪山「神主家」を賜った時に、共に「朝廷」重臣に迎えられた。三輪山「大王家」祖神「神迎え」する際に、「大田田根子命」「大御気持命」三輪山神主を、「宇佐津臣命」「大御食津臣命」(おおみけつとみのみこと)が「幡」を掲げる丈旗隊を担い、「神迎え神事」を無事果たした事で、「中臣氏」族「大御食津臣命」「大幡主命」称号を賜った。

 娘の「幡主賀具呂姫」「紀の大伴氏」「建甕槌命」に嫁がせ、「紀の大伴氏族」所領地「御食国」として直轄化し、「御食国」掌握管理を担った。

 九代「開化大王」の代に、「朝廷」伊勢の地の支配者「伊勢津彦命」所領地直轄地とし、各「御食国」「元伊勢神宮(社)」に坐す「天照大神」御魂「伊勢大神宮」勧請する為に、「大王家」直轄建設用地を求め、中央の「中臣氏」族(大中臣「相鹿津臣命」(おおかつとみのみこと)を多気郡相可(おおか)に派遣した。

 「相鹿津臣命」「伊勢津彦命」の娘「弥豆佐久良姫」(みずさくらひめ)を娶り、「伊勢津彦命」支配下に治め、伊勢の地(多気地区度会地区)を「御食国」として直轄化すると共に、「伊勢大神宮」建立用地として所領地の一部「宇治山田原」「大王家」直轄地とする事を所望した。「伊勢津彦命」所領地「宇治山田原」建設用地として「大王家」献納上申したため、「伊勢大神宮」建立し、「大神」勧請する一大事業を承った。

 伊勢の地を「御食国」とし、又「伊勢大神宮」建立「天照大神」勧請道筋を付けた「相鹿津臣命」「天照大神」祭祀奉仕したとして「天日別命」称号「伊勢国造」賜り子孫「度会氏」「磯部氏」輩出「度会氏」始祖となった。

 十三代「成務大王」の代に、度会地区居留していた「伊勢津彦命」子孫「度会氏」名乗り、十五代「応神大王」の代に磯部地区居留していた「伊勢鴨部」「伊勢磯部」支配下治め「磯部氏」名乗る様になった。

 「度会氏」度会の地に「伊勢外宮」造営し、諸国「御食国」祭祀されていた「元豊受神社」「伊勢外宮」集結し、一括祭祀出来る様にして、外宮祭祀官(祢宜家)務めた。十五代「応神大王」の代に、神宮所領地磯部地区にも拡大し、「磯部氏」名乗り「度会神主」務める様になった。

[系譜から見る「伊勢の地」を拓いた「紀の大伴氏族」と「伊勢国」の成立ち]
                                 (大中臣)   (大中臣)
                        (大中臣の太祖)|・梨迹臣命ーーーー神聞勝命ーー→
       (大中臣氏の太祖)(大幡主命) |・伊香津臣命ーー|(伊香具氏の祖)
        宇佐津臣命ーーー大御食津臣命ー|        |・臣知人命
       (紀国に入植)-(倭笠縫を管理)|・幡主賀具呂姫
                          |      (太田系大伴氏)(紀伊東部開拓)
(加茂氏)  (紀伊国の制海権)          |     |・大御食持命ーーー太田命ーーー→
天日方奇日方命阿多津奇根命            |     |
         |                |ーーーーー|
         |ーーーーーー建飯勝命      |     |(中臣系大伴氏)(太田郷主継承)
(倭氏)     |       |        |     |・豊御気主命ーーー大御気主命ー→
椎根津彦命ーーー渟名建姫     |        |
                 |ーーーーーーー建甕槌命
                 |      (紀の大伴氏の祖)
                 |
      |・出雲神門臣ーーー出雲沙麻奈姫
出雲土師族ー|
      |・出雲臣ーーーーー出雲鞍山祇姫
                 |      (中央の大伴氏の祖)
太田部事代主ーー鴨美気姫     |ーーーーーーー大部主命
         |       |      (朝廷の大臣)
         |ーーーーーー大御気持命
         |     (三輪笠縫邑の統治者)
        大田田根子命 (三輪神主家)
       (紀国太田郷の豪族)
       (三輪笠縫邑の豪族)
       (三輪神主家)

《①神武大王》 《②綏靖大王》 《③安寧大王》 《④懿徳大王》 《⑤孝昭大王》 《⑥孝安大王》

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
                          (大中臣)
                         |・烏賊津臣命
                |・臣狭山命ーーー|(伊勢国に派遣)
                |        |・天見通命ーーー・伊勢中臣氏
                |(天日別命)   (度会神主の祖、伊勢中臣氏)
  (大中臣)  (大中臣)  |(神宮建立勧請) (大幡主命)  (伊勢神宮宮司家)
ーー久志宇賀主命国摩大鹿島命ー|・相鹿津臣命   (度会氏の祖)|・宇治土公家
                   |     |・大若子命ーー|(伊勢神宮神主家)
                   |ーーーーー|       |・神宮神主家
                   |     |(信濃安曇野開拓)
                |・弥豆佐久良姫 |・弟若子命ーーー・信濃中臣氏
ーー彦田都久禰命彦楯津命ーーー|
                |(伊勢津彦命
  (製塩氏族ー塩釜開拓)   |(宇治山田原献納)
|・建飯賀田須命(伊勢鴨部)  |・彦久良為命ーーーーーーーーーーー・度会氏
|                (伊勢国の豪族)
|・阿田賀田須命(伊勢磯部)
  (製塩氏族ー塩田開拓)
                 ※天照大神創生
                    ※御食国に元伊勢神宮建立
                       ※御杖代による天照大神の祭祀
                          ※伊勢神宮建立発願と勅願
                             ※伊勢神宮落成、勧請
                                ※伊勢神宮斎王制定

                          (①御杖代)   (②御杖代)
                           豊鍬入姫命ーーー→倭姫命
                                   (①伊勢神宮斎王)

《⑦孝霊大王》 《⑧孝元大王》 《⑨開化大王》  《⑩崇神大王》  《⑪垂仁大王》 《⑫景行大王》

大神宮建設に携わった氏族達

 九代「開化大王」の代から大神宮建立発願され、十代「崇神大王」勅願により伊勢神宮建設が始まったが、国家威信を懸けた大神宮建立勧請主導した「天日別命」一族「中臣氏」族ネットワークを最大限駆使して人材資材技術知識開拓力など総力を挙げて神宮建設に当たり、十一代「垂仁大王」の代に創建成り、勧請された。大神宮造営は実に三代の「大王」に亘って成し遂げられた一大事業であった。

 国家の威信を懸けた壮大な大神宮の建設には膨大な資材や人材や優れた先進の技術が必要であった。ではどんな氏族がこの事業に携わったのか?

伊勢の地を治めた豪族「紀の大伴氏」「伊勢津彦命」神宮建設用地宇治山田原寄進して神宮建立を  勧請した。

「御食国政申大夫」を務めた「物部氏」全国から物資調達を行い、「物部氏」海部役を務める海人  「安日彦族」「阿部氏」の祖)は物資舟運を担った。

「出雲土師族」土師結集して建設用地造成基壇基礎外構道路石積などの建設に携わ  った。

「紀忌部氏」採材の品部として木材石材などの建設用材熊野木曽から調達した。

「紀海部氏」造船造殿の忌部として大神宮造殿河川港湾工事を担った。

 大神宮建設主導したのは「天日別命」二人息子達で、「大若子命」「建興束命」)は神宮建立、勧請した氏族として、神宮建設して祭祀する五大夫「阿部臣」の建沼川別命「和珥氏」の彦国押命「物部氏」の十市根命「大伴氏」の建日命「中臣氏」の大鹿島命)の一員に任じられ、建設最高責任者を務めた。大神宮全体構想グランドデザイン)と宮地造成工事を担い、落慶祭事には神主を務め、「幡」を掲げて「神迎え」を執り行い「大幡主命」称号を賜った。

 子孫「宇治土公家」(代々伊勢神宮宮司家を務める)と「神宮神主家」(代々伊勢神宮神主を務める)が祭祀を担う様になった。そして十三代「成務大王」の代に、子孫「度会氏」度会の地に外宮造営し、代々外宮祭祀官祢宜家)を務める様になった。

 「弟若子命」献納宮地代地として賜った信濃安曇野の地へ磯部を伴って移住し、伊勢神宮「御食地」として開拓し、神宮豊受神宮神宮の食料を司る宮)に寄進し、「信濃中臣氏」として信濃「御食国」掌握管理した。さらに「信濃国」をはじめ北陸国「御食国」として開拓を進め「信濃国造」に任じられた。子孫「信濃磯部氏」輩出した。

 「弟若子命」はさらに東北地方開拓に乗り出すが、さらに南下「総武国」相模原開拓し、「総武国造」となった。又ここを起点東北移動東北地方開拓を進めた。最終的に郡山盆地安積に至り水田耕作展開する。この地は縄文時代に、「鴨族」舟運帯同した「安曇族」新潟阿賀入植し、さらに阿賀野川遡上会津入植猪苗代湖一帯を開拓し、水田耕作を営んだ。この猪苗代湖から流水導入水田可耕地を拓いたものである。現在の安積疎水後世本格的に拓かれたものである。余談になるが「中臣氏」子孫「奥州藤原氏」隆盛「弟若子命」足跡になっていると思われる。

 「天日別命」兄弟「臣狭山命(とみさやまのみこと)」中央の「中臣氏」)の子息「天見通命」(あまのみとおりのみこと)が「伊勢国」派遣され、度会郡大貫本拠地とし「伊勢中臣氏」として伊勢「御食国」掌握管理した。又「天照大神」祭祀奉仕したとして「天見通命」神名を賜った。

 十三代「成務大王」の代に、「天見通命」三代孫「大阿禮命」「荒木田氏」を賜り、内宮祭祀官(祢宜家)に任じられた。十五代「応神大王」の代に、五代孫「最上命」(いとがみのみこと)が荒木田神主を賜った。以降中央の「中臣氏」伊勢神宮神主を代々務める様になった。

伊勢神宮と出雲大社の関わり

 「伊勢津彦命」伊勢の地の宇治山田原「大王家」国譲りしたが、用地問題だけでは解決できない一族祖神奉斎祭祀問題懸案となった。神宮周辺居留する「度会氏」伊勢神宮神主宮司に任ぜられ、「天照大神」祭祀する立場になり、自族祖神「大国主命」「須佐之男命」)を立って祭祀する事が許されない立場になり、そこで伊勢居住する「度会氏」係累氏族聖地として「出雲国」大社を築き、自族それぞれの祖神祭祀する事を国譲り条件とした。

 「朝廷」出雲巨大神殿を建て、「大国主命」「須佐之男命」奉斎する事を許した。但し彼らの人祖神たる「須佐之男命」「天照大神」創生の際に、荒ぶる神として忌門鬼門)に封印されたため正面きって奉斎する事をは許されず、神殿正面から見えない様に仕切られた奥(忌門)奉斎された。

 伊勢居住者(神々)聖地出向祭祀を行える様になった。旧暦十一月には気兼ねなく堂々と聖地出向いて祭祀をしたために伊勢では神々不在になり「神無月」と云われ、聖地では祭祀者集まるので「神有月」と云われる様になった。

「天照大神」を求心力とする「国づくり」

 天祖神「天照大神」は何時、誰によって、何のために創生されたのか?

 「日本書紀」によれば『十代「崇神大王」の代に、天祖神「天照大神」を宮中から笠縫邑に移し、「豊鍬入姫」に託して祀った。この斎宮を「元伊勢神宮」と云う』とあることから、笠縫邑に移して祀った「天照大神」を祀る斎宮第一号「元伊勢神宮(社)」であったと云える。

 「倭国」笠縫邑「崇神大王」の代より二世紀の二代「綏靖大王」の代に、「大王家」直轄地とされた。次いで四代「懿徳大王」の代から九代「開化大王」の代にかけて「但馬国」「紀の国」、「伊賀国」、「淡海国」、「美濃国」、「尾張国」、「伊勢国」など七か国「御食国」として支配されたが、「御食国」内に「天照大神」祭祀する事は無かった。

 八代「孝元大王」の代から九代「開化大王」の代にかけて西国平定丹波道平定の為に「山陽道将軍」「丹波道主命」を置いて、西国丹波道諸国平定支配下に治めた。しかし諸国抵抗は激しく、一筋縄ではいかず「神の力」を借りて諸国併合を行うことを余儀なくされた。この様な事から推察すると、八代「孝元大王」の代もしくは九代「開化大王」の代「中臣氏」主導の下で天祖神「天照大神」創生され、「天照大神」天声求心力とする「国づくり」が始められたと考える。

 「天照大神」天声とは『「大和国家」は天祖神「天照大神」が治める国であり、「天照大神」の末裔である「大王」が「天照大神」の神勅の下で永久に統治を行い、全ての政治は神事をもって行う』というものである。天祖神「天照大神」「天照大神を求心力とする国づくり」の為に創起されたものである。

 以降「天照大神を求心力とする国づくり」が進められたが、平定した諸国斎宮(元伊勢神宮)建立し、「天照大神」祭祀した。又過去に治めて来た「御食国」にも、遡って「天照大神神宮」建立祭祀した。

 「崇神大王」の代から「天照大神を求心力とする国づくり」本格的始まるが、「御食国」として併合した諸国「天照大神」祀る「天照大神神宮」及び諸国統治した豪族祖神祀る「大国魂神社」建立して祭祀してきた。「斎主」「大王」が務めるが、「斎宮」増加してくると「大王」がまわらず「御杖代」代理)に託し祭祀する事が通例となった。

 「崇神大王」の娘「豊鍬入姫」初代「御杖代」に任じられ、二代御杖代「倭姫命」(十一代「垂仁大王」の娘)に引継ぐまで、巡幸した五カ国六社元伊勢神宮)、巡幸滞在期間八年に及ぶ。「倭姫命」巡幸した六カ国十九社元伊勢神宮)、巡幸滞在期間四年以上に及ぶ。

 因みに、「御食国」祀られた「元伊勢神宮(社)」「御杖代」巡幸した順番巡幸「御食国」化がなされた順番にほゞ等しい)を以下に記す。

「倭国」の笠縫邑→②「但馬国」の吉佐宮→③「倭国」の伊豆加志本宮→④「紀の国」の名草浜宮→⑤「紀の国」吉備名方浜→⑥「倭国」三輪の御室峰上宮→⑦「倭国」宇陀の秋宮→⑧「倭国」宇陀の佐々波多宮→⑨「伊賀国」の隠の市守の宮→⑩「伊賀国」の穴穂宮→⑪「伊賀国」の敢都美恵宮→⑫「淡海国」の甲可日雲宮→⑬「淡海国」の坂田宮→⑭「美濃国」の伊久良河宮→⑮「尾張国」の中島宮→⑯「尾張国」の桑名野代宮→⑰「伊勢国」の鈴鹿小山宮→⑱「伊勢国」の阿佐加藤方片樋宮→⑲「伊勢国」の飯野高宮→⑳「伊勢国」の佐々牟江宮→㉑「伊勢国」の滝原宮→㉒「伊勢国」の伊蘇宮→㉓「伊勢国」の皇大神宮

 第一号「御食国」である笠縫邑桧原神社桧原神社笠縫邑「元伊勢神宮(社)」比定される)を出発点として、他の「御食国」巡幸祭祀順に行われるが、増え続ける「御食国」巡幸祭祀二代に亘る「御杖代」「豊鍬入姫」「倭姫命」)に託して、伊勢神宮建立されるまで続けられたが、伊勢神宮建立された後「倭姫命」伊勢神宮「斎王」に任じられ、「御杖代」による巡幸祭祀終焉を迎えた。その事が平安時代以降の伊勢神宮斎宮制度発端となった。

 伊勢大神宮建立には二つの背景があったと云える。第一「天照大神」求心力とする中央集権による「大和国家」統合実現こそが十代「崇神大王」強い思いであった事。第二に、諸国散在する「天照大神」を祀る「元伊勢神宮」「伊勢大神宮」一堂に集め、「斎王制度」「倭姫命」初代「斎王」に任じられた)を定め、一元祭祀を行う事で「天照大神を求心力とする国づくり」具現する事であった。

 八か国、二十か所「元伊勢神宮」に坐す「天照大神」巡幸祭祀する「御杖代」ご苦労解消すると同時に、「王権」諸国巡幸祭祀すると云う慣例を改め、「伊勢大神宮」に坐す天祖神「天照大神」によって天下統治されていると云う姿具現化する事で、「天照大神を求心力とする国づくり」思想顕示し、より一層鮮明にすることが大願であった。

 この「崇神大王」の強い思いを汲んだのが「中臣氏」族で「伊勢大神宮」建立を創起し、主導したと考える。

 余談になるが、初代「神武大王」の代から「物部氏」と共に「倭王権」中枢に在った「中臣氏」族は四代「懿徳大王」の代に、「紀の大伴氏族」(伊勢の地を開拓して豪族となった)を支配下に治め、伊勢の地を「御食国」化し、掌握管理する様になり、伊勢大神宮建立の礎をつくり、伊勢大神宮の運営を担った。

 「中臣氏」族初期「倭朝廷」重臣を務め、「御食国」開拓掌握管理を行い、献納物収納管理する「屯倉」運営などを担っていたが、二代「綏靖大王」の代に、三輪山「大王家」祖神「神迎え神事」に携わり、「大幡主命」称号を賜った事を契機に、九代「開化大王」の代に、一枝造墓集団「和珥氏」拠点狭山派遣され、「大王家」巨大墳墓「神迎え神事」を担ってきた。そして伊勢大神宮建立後に「天照大神」「神迎え神事」盛大に執り行い、再び「大幡主命」称号を賜った。

 「中臣氏」族は「幡」を掲げて「神迎え」を行った事で「大幡主命」の称号を賜り、「神迎え神事」には欠かせない存在であった事が伺える。伊勢大神宮建立後に神主や宮司に任ぜられ、伊勢大神宮の運営を担う様になった。これを契機に中央の「中臣氏」は「祭祀族」としての役割を強めて行った。

 「中臣氏」族「倭王権」初期段階から中枢に在り、「国家」を動かす原動力となり、「王権」「支えた」と云うより「牛耳った」と云っても過言ではない。「中臣氏」については「中臣氏考」として別途ブログ投稿するつもりです。


category: (4)鴨王国「伊勢国」の国譲り

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