好々彦の神代文化考

神話と系譜と足跡を元に”古代人の生き様”を読み解き、新しい古代史の視点を提案する。きっとあなたの古代史観が変わる!                                                              

日本の国のなりたち  

(1)海洋国家日本のあけぼの
    ー三つの東拓ルートー

 洋の東西を問わず大陸、半島、諸島との海洋往来で交易をし、さらに交易先や海洋ルートの開拓、建国、統治に導いたのは海洋民族であると云うのは紛れもない事実である。海を支配することで国が始まる。

 神話では、現在の皇祖神とされる「瓊瓊杵命」の妃は綿積神の娘「木花開耶姫」であり、その子の「彦火火手見命」の妃は綿積神の娘「豊玉姫」(対馬の豊玉出身の海人)であり、その子の「鵜葦草葺不合命」「豊玉姫」の妹「玉依姫」と結ばれ、生まれた子が「神武天皇」である。初代天皇の母も祖母も曽祖母も祖先代々海神綿積大神の娘である。

天忍穂耳命ーー瓊瓊杵命
         |ーーーーーー彦火火手見命
海神阿知族ーー木花開耶姫     |ーーーーーー鵜葦草葺不合命
海神安曇族ーーーーーーーーーー|豊玉姫      |ーーーーーーー神武天皇
               |ーーーーーーー 玉依姫

 神話では海を支配することで国が始まる真実を伝えている。国の始まりから日本は海洋国家なのである。

 前一万年~五世紀頃、対馬の豊玉の津を拠点として朝鮮半島の韓国(からくに)と九州北端の筑紫の間で海洋を往来し交易をする民族がいた。前三世紀(縄文晩期)~三世紀頃(弥生後期)頃に一部は朝鮮半島の韓に入植し倭(任那の日本府)を設置、韓は馬韓や辰韓に発展し、さらに五世紀(古墳時代)頃、倭は加羅国を、馬韓は百済国を、辰韓は新羅国を建国した。またその一枝は筑紫国を建国した。

 九州北部に入植した海洋民族は九州一円を開拓し、さらに日本の東方を開拓することから日本の国が始まった。日本の東方開拓ルートは三つのルートから成る。

 東拓ルート図縮小3_convert_20160730182810
       3系統の東拓ルート図

加羅国から筑紫国間の交易ルートで、博多を拠点として日本列島の北側沿岸を東進する「日本海ルート」である。
瀬戸内海を東進し、大三島に中間点を置いて、さらに島々や沿岸を拠点化し東進する「瀬戸内海ルート」である。
九州から四国さらに紀伊半島を横断する「中央構造線断層帯」を海と陸を跨いで東進する「中央構造線断層帯ルート」である。

 なぜ海洋民族は東方の開拓を目指したのか?
マルコポーロが東方を目指した如く、日の出る方向に向えば何かがある。未知の世界が腕を伸ばせばそこにある。洋の東西を問わず“開拓者魂”が向わせた!

 海洋民族の祖先達は何代にも亘って資源開拓地を求め、安心して活動が出来る拠点地を求め東方へ東方へと進んだ。「未知の明かり」を目指して東方にたどりついた海洋民族達が“実り”を手にするまで幾多の辛苦をも乗り越えて掴んだであろう事は想像に難い。「因幡の白兎伝説」や「浦島伝説」や「鶴の恩返し伝説」など海人にまつわる多くの伝説があるが、難破や漂着した海人や渡来人が現地人に助けられて、恩返しをしたと云う事が語られており、海人達が苦難を経て喜びを勝ち得た事が神話でも伝えられている。

  生活の基本財や権力を表象する宝物などを獲得するために新天地を開拓し、資源開拓、確保する拠点をつくり、根を下ろし、根を張りながら富と権力を築いていく。古代の海や大地は手付かずの未知の希望に満ちた未開地であるが、誰も手をつけていない真新な世界に一人立った時の感動はどんなにすばらしいものか?その感動を感じ取れる者だけが競って東拓をした。
 
 「日本海ルート」を拓いたのは対馬を拠点とし、外洋船を操り、綿積神を祖神とする海人「安曇族」「大国主命」を祖神とし、土づくりや土建や農耕を得意とする「鴨族」が行動を共にした。筑紫を経て出雲に入植し、そこを拠点に子孫は日本海沿岸の各地を開拓、拠点化した。

 「瀬戸内海ルート」を拓いたのは九州北部や九州沿岸に拠点をもち、内海や沿岸、河川、河沼を航海する海人「阿知族」「天忍穂耳命」の子孫達で海人「安曇族」と一体化し、九州北部を出発し大三島を航海の拠点とし、「鴨族」を帯同し筑紫から摂津三島に至る瀬戸内海水系を開拓、支配した。「天忍穂耳命」の子孫は大三島から摂津三島に至る水系を開拓、摂津三島に降臨し淀川水系を支配した。

 「中央構造線断層帯ルート」(丹の道ルート)を拓いたのは海人「阿多隼人族」と行動を共にした「鴨族」の事代主(家督相続主)と異母兄弟の「味耜高彦根命」で九州南部曽於船津から東回りで大分経由、瀬戸内海に至り、大三島の拠点を経て四国伊予に入り吉野川を下り、紀伊水道に出て淡路島を経て紀の国に渡り、紀ノ川を遡上し葛城に至る「中央構造線断層帯」に沿う「丹の道」を開拓し、葛城の地に降臨した。時は縄文晩期で狩猟、採取、焼畑耕作の生活をしていた。
 
「味耜高彦根命」の子孫の「阿知鴨族」(海人「阿知族」「鴨族」)は葛城の地を開拓して「葛城鴨氏」の祖として渡来先住民となる。

 瀬戸内水系を開拓支配した「天忍穂耳命」の子で「瓊瓊杵命」と異母兄弟である「天火明命」「大分丹生族」を帯同して「中央構造線断層帯」「丹の道」)を開拓支配した。続いて子の「天火遠理命」(天尾張命・山幸彦)も「丹の道」を開拓、紀ノ川を遡上し葛城の高尾張に降臨し、子孫は「倭朝廷」と結びつき、加護を受け後々「朝廷」の海部として海洋日本の大きな役割を担うことになる。

 瀬戸内水系、淀川水系を支配した「瓊瓊杵命」の子の「天火照命」(海幸彦)は大三島を拠点に瀬戸内水系を支配、子の「天日方奇日方命」(鰐彦)は「神武東征」八咫烏の役割を担い、その功績により「倭朝廷」から「加茂氏」の称号を賜り、紀の国の太田鴨地の一部(吉備湾、日方湾の地)と紀ノ川の水利権と紀の国沿岸の制海権を賜る。

 「天火照命」と兄弟で大三島から摂津三島に至る瀬戸内水系と淀川水系を支配した「天火須勢理命」「大隅隼人」の祖で、子の「椎根津彦命」「神武東征」の水先案内をし、「倭朝廷」から「倭氏」の称号を賜り、淀川水系と河内湖(茅渟海)、大和川水系の水利権を賜り、支配した。




            

category: (1)海洋国家日本のあけぼの

tag: 海洋民族  海洋国家  東方開拓ルート  東拓ルート  海洋交易ルート  海洋ルート  日本海ルート  瀬戸内海ルート  中央構造線断層帯ルート  丹の道ルート 
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日本の国のなりたち  

(2)海人族の交易が培う古代文化

 日本列島の起源まで遡れば原人がいたのはまちがいないが、一般論として西方には南方諸島から海を渡り九州南部に渡来、入植した「熊襲」と云われる南方系の民族が定住化し、東方にはカムチャッカ半島などから海を渡り北海道、東北方面に渡来、入植し「蝦夷」と云われる北方系民族が定住化し、「縄文文化」を形成した。前一万年から前四世紀を縄文時代と云うが、神話では渡来系縄文人は高天原(天上界)から葦原中国(地上界)に降臨したとされているが、原住民系縄文人は星から地上にやって来たとされている。

 渡来系縄文人は外洋航海術を身に付け、長い距離を丸木舟で往来していた。交易品は南海諸島や中国大陸、朝鮮半島、日本列島など広域に及ぶ産物で、交易は朝鮮半島、対馬、九州北部の間で盛んに行われていた。
 
 縄文時代丸木舟B
  縄文時代に外洋往来したと思われる長さ8m、直径1m以上の丸木舟が舞鶴市浦入遺跡で出土している。

 前四世紀から三世紀までを「弥生文化」の時代と云い、中国や朝鮮半島などとの交易が盛んになり、多くの民族が九州北部に渡来、入植し、さらに東方に移住し、物や技術の交易が盛んに行われた。特にこの時代の特色は、前五世紀水稲耕作が九州北部に伝えられ、数百年程度で急速に日本の東北まで駆け抜けた。また土師技術や鋳鍛冶技術が九州北部に持ち込まれ、「日本海ルート」「瀬戸内ルート」で日本列島(大八島)の東方へ伝わった。

 渡来弥生人達は、より高度な航海技術を持ち、大型化した構造船で外洋や内海を往来した。又河川や湖沼は平底の川舟で往来した。長い距離を航海するには、途中で船のメンテナンスをしたり、新造したり、食料や水の補給、櫂子の交代などをする拠点港をつくり、さらに物資の集散や交易をする市場の機能をもつ椿市、海柘榴市、津波市などに発展する(港市)がつくられた。

 古代構造船_convert_20160731163953 湖河舟ルーツ丸木舟縮小2_convert_20160731174726
   弥生時代に外洋往来した構造船と河川・湖沼往来した平底川舟のイメージ図

 縄文時代の交易品は南方諸島からは貝輪などの「アクセサリー」や釣針、スプーン、銛など「骨角器」、日本列島の諸地域からは包丁、斧、鏃、鑿、錐、鎚、など「黒曜石製石器」、砥石、鑢など「サヌカイト製石器」、勾玉、菅玉など「ひすい製玉」、また塩、穀物、縄文 土器などの「生活財」等が主に交易された。

 弥生時代の交易の特色は縄文時代と異なり単に物だけの交易ではなく技術を伴った物の交易であった。防腐剤や識別塗料の役割をもつ「丹土」や金、銀の精錬、鍍金を行うための「水銀」や銅鐸、銅鏡を製造するための銅剣、銅矛、銅戈などの「原料青銅」や鉄剣、馬具、農具などを製造するための鉄斧、鉄鋋、鉄ドリルなどの「原料鉄」や砥石、石槌などをつくる「原石」やメノウ、水晶、碧玉などの「玉造用原石」や製鉄用触媒、漆喰用の素材としての「石灰石」や窯、鋳型を造る素材としての「耐火土」や埴輪、須恵器をつくるための「赤土、白土」や製陶、精錬の窯焚きに必要な「薪炭」や冠飾り、馬具飾りなどに使う「金銀素材」など、その他「銅鐸」「銅鏡」「鉄剣」「鎧」「馬具」「農具」「須恵器」「土師器」「巨石」「巨木」「穀物」「塩」「麻縄」や麻、絹、綿などの「布素材」や鮑、鯛、鮎、岩魚、鮭、など「海鮮」「干物」や桃、栗、栃、胡桃などの「果実」「漆」「椿油」「梅酢」「柘榴酢」「葛」等々多岐に亘る。


      

category: (2)海人族の交易が培う古代文化

thread: 歴史 - janre: 学問・文化・芸術

tag: 古代文化  交易品  縄文時代  弥生時代  縄文文化  弥生文化  渡来縄文人  渡来弥生人  原住民系縄文人  渡来系縄文人 
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日本の国のなりたち  

(3)国の礎を築いた海人族と渡来先住民の交わり
    ー縄文・弥生文化を運んだ海人族と渡来先住民(鴨族)の共生ー

(3)・1 九州に古代文化を運んだ隼人族

西北九州(肥国) 前一万年頃旧石器時代に五島列島ルートで「波邪(五島)隼人族」が松浦半島唐津に渡来し、「縄文文化」を受け入れたことで、そのまま縄文人へ移行しながら内陸部へと移動、縄文後期には吉野ヶ里に集落を形成し、前四世紀頃には大規模集落へと発展する。この縄文人が「弥生文化」を取り入れた事でそのまま弥生人へと移行し、三世紀頃には集落最盛期を迎える。 
 
西南九州(熊襲国) 前一万年頃縄文時代に種子島ルートで「多禰隼人族」が大隅半島肝属平野に渡来、内陸部へ入り曽於から更に北上し球磨川流域の球磨へと入植、そのまま「弥生文化」を取り入れ弥生人へと移行した。球磨地方と曽於地方に居住する民族を「熊蘇隼人」と称する。

東南九州(豊国) 前一万年頃縄文時代に「多禰隼人族」が日向に入植し「日向隼人族」と称し、そのまま「弥生文化」を取り入れ弥生人へと移行し、更にそのまま古墳時代へ移行した。

 縄文初期から弥生後期まで洞窟居住が行われていたが、弥生後期から古墳時代に亘り大豪族が出現し、列状柱建物花弁色間仕切り住居が出現した。また三世紀から七世紀前半にかけて西都の台地に大規模古墳群が形成された。

 稲作は前一万年頃縄文時代に種子島ルートで焼畑陸稲耕作が伝わり、前五世紀頃縄文時代後期に北部九州から水田耕作の文化が入ってきた。

 「熊蘇隼人族」で海を拠点にする隼人族は二族に分かれ、薩摩半島に拠点をもつ隼人族を「阿多隼人」と称し、大隅半島側に拠点をもつ隼人族を「大隅隼人」と称する。二部族の頭は兄弟である。

 「阿多隼人族」「大隅隼人族」は薩摩半島南部や桜島の度々の大噴火の被害を避け、日向(宮崎平野)に拠点を移した。日向を拠点とする「日向隼人族」「阿多隼人族」「大隅隼人族」を受け入れ、パワーアップして弥生時代から古墳時代にかけて一大文化圏を築いた。

東北九州(筑紫国) 前一万年頃旧石器時代に五島列島ルートで「波邪(五島)隼人族」の一枝が福岡板付に渡来、「縄文文化」を取り入れたことで、そのまま縄文人へと移行し、前四世紀頃朝鮮半島から筑紫国に渡来した多くの渡来系弥生人と交わり、筑紫国へ移動、さらには九州を出て日本の東方へ大移動することになる。

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   九州と日本海沿岸に古代文化を運んだ海人族

(3)・2 日本の礎を築いた三系統の海人族

海人阿知族 阿知族中国→五島列島→西北九州のルートで渡来した「天忍穂耳命」を祖神とする海人族で「瓊瓊杵命」(渟名杵命)が有明海に降臨、筑後川流域から有明海域に拠点を置き、干潟の海を舟運、漁労を中心に活動していたが、経ヶ岳、雲仙岳、吾妻岳などの度重なる噴火の被害を避け南下して西南九州の笠沙に入植、「阿多隼人族」と一体化し、更に鹿児島湾に入植し「大隅隼人族」と一体化し、鹿児島湾に拠点を移して、パワーアップして活動するが、また度重なる池田カルデラ、鰻カルデラ、開聞岳や桜島の大噴火の被害を避け、豊国の日向に拠点を移して入植し、「日向隼人族」と一体化した。

 さらにパワーアップして、「阿多隼人族」の祖神である「天火照命」(海幸彦)や「大隅隼人族」の祖神である「天火須勢理命」「彦八井耳命」(後の「神武大王」)の父「鵜葦草葺不合命」が一大拠点をつくった。その拠点・日向西都原を造営した主を「曽於津彦命」と称する。

 他方、「瓊瓊杵命」と異母兄弟である「天火明命」は博多に渡来し、朝鮮半島の加羅国から筑紫に渡来した「丹生都姫命」を祖神とする「丹生族」を帯同し、内陸部を南下し基肄に入植し、さらに丹土や水銀が産出する中央構造線断層帯の西端に当る佐賀の武雄、嬉野に移動し、ここを基点として、舟底や建造物、棺などの防腐剤となる丹土の採掘、交易を行い、さらに中央構造線断層帯(丹の道)を東方へ移動し大分周辺で丹土採掘を行い、大分を交易の拠点とし、大分湾沖の高島を拠点の聖地(シンボル)とした。

 佐賀に移動した一族は「夜須基肄丹生族」として、また大分に移動した一族は「大分豊後丹生族」として丹生採掘や交易の活動をした。
 
 「天火明命」を祖神とする海人「天火遠理命」(天尾張命・山幸彦)はさらに丹土を求めて「丹生族」を帯同して大分高島を出発し、中央構造線断層帯を海や陸を渡り日本の東方に向かい、速吸の瀬戸を渡り四国に入り吉野川を下り、紀伊水道に入り淡路島の沼島を経て紀の国に入り、さらに紀ノ川を遡上し吉野川に至り最終的には葛城山に降臨する。

 四国伊予の丹原に移動した一族は「伊予丹生族」として、讃岐山城に移動した一族は「讃岐丹生族」として、丹生採掘や交易の活動をした。また紀の国に移動した一族は「紀伊丹生族」として、吉野に移動した一族は「吉野丹生族」として、伊勢の嬉野方面に移動した一族は「伊勢丹生族」として丹生採掘や交易をした。また四国や吉野、伊勢の丹生採掘の労役には先住「鴨族」「鴨部」と云われる部民がその任に当たった。大分豊後や紀の国の丹生採掘の労役には当地に居住していた「大伴氏族」の伴部がその任に当たった。

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海人「安曇族」 海神安曇神を祖先とする安曇族は前四世紀頃、朝鮮半島の加羅国→対馬→壱岐→九州・筑紫のルートで交易拠点を拓いて拠点港間を通常的に交易、舟運、往来していた。

 対馬の豊玉の津を拠点にする「安曇族」「豊玉彦命は島根半島を拠点にする「安曇族」「穂高見命と一体化し島根半島から糸魚川(めのおの原産地)に移動入植し、さらに糸魚川を遡上し穂高岳に降臨し、安曇野、信濃の諏訪(黒曜石の原産地)を開拓し、「穂高見命」と兄弟の「振魂命」はさらに日本海を北上し新潟へ移動、入植して阿賀野川を遡上し会津若松に降臨し、猪苗代湖盆地を開拓し、兄弟共に東北の渡来弥生人として活躍した。

 一方、本流の「安曇族」は九州筑紫の宗像を本拠とし、ここを拠点に九州一円の交易拠点港(筑紫、宇土、船津、大隅、宮崎、杵筑、国見、五島、種子島)を開拓し、さらに瀬戸内の東方ルートの開拓をし、摂津三島や紀の国沿岸、伊勢に至る交易拠点港(下関、広島、加古川、明石、神戸、大阪住之江、松阪)の開拓をした。

 これらが「安曇族」の航海の拠点港となり、住吉の荒魂「猿田彦神」又は「佐田彦神」)を祀り、航海の安全を祈ると共に航海に必要な資材や食料、水、櫂子などの補給、舟の補修、建造を行う基地、交易を行う港とした。

 「住吉の荒魂」(阿羅国人の魂の継承者)こと「猿田彦神」「佐田彦神」)は朝鮮半島の阿羅を拠点に日本列島間を往来する外洋航海をする海人「安曇族」が開拓した各拠点港に渡来弥生人が根付き「弥生文化」が花開いた。

海人「鳥取族」(「斯慮渡し族」) 海神「鳥取神」を祖先とする海人「鳥取族」は前四世紀頃、新羅国の前身斯慮(鳥取の白兎海岸で鮫に皮を剥がれた白兎の神話の由来となった「しろ」である)→隠岐島根半島鳥取のルートで渡来したが、すでに先住民(「美穂津鴨族」)が入植しており、その「鴨族」の一枝を帯同し、鳥取の千代川流域に入植、賀露津(新羅の前身辰韓の一種族「賀洛族」が入植した場所)に交易港を拓き、さらに曳田郷を開拓した。この事は古事記で鮫に皮を剥がされた白兎が「大国主」に助けられた話として登場する。

 「鳥取族」のルーツはツングース系騎馬民族で、前四世紀頃縄文時代に「額田毘道男伊許知禰」「額田部角凝魂」の祖先)が渡来し朝鮮半島から持ち込まれた鉄斧を道具にして舟造りしたり、鍛冶用の炭を作る薪木を伐ったりするのみならず、鉄斧を原料鉄として鍛冶技術を駆使して別の鉄器(馬具や鋤など)に造りかえ再利用を図り、交易品にする「鉄器文化」を伝えた。

 「鳥取族」は舟馬両使いの民族であり、その力を発揮して、さらに円山川に移動し、気比の津を拠点に豊岡、出石を開拓、さらに竹野川に移動し古代竹野湖に拠点港を拓き、四世紀~五世紀初期には一大交易拠点を築いた。さらに小浜の津を拠点にし現在の若狭街道を経て琵琶湖の今津から高島を開拓した。さらに敦賀湾に移動し敦賀の気比の津を拠点に現在の塩津街道を経て塩津の港を開拓し、琵琶湖の水路を開拓した。

 「鳥取族」が開拓した但馬や北陸の海路は、後に「神武東征」で舟運帯同した海人「安日彦族」「大日諸族」の諸=麿=彦)が「倭朝廷」との血縁関係を結び加護のもと、「物部氏」海部となり大いに活用されるが、新羅から渡来した「都奴我阿羅斯等」の入植に際して、舟運帯同して新羅人の居留地各地を訪れ入植に協力した。「都奴我阿羅斯等」が入植した各拠点に「天日矛」伝説を残す。

 [海洋民族の関係系図]

                (妃)
        |-------ー玉依姫命    (穂高岳に降臨、信濃を開拓)
        |        |      |・穂高見命
        |        |-----ー|(会津に降臨、猪苗代湖を開拓)
        |       (正妃)    |・振魂命
        |・神魂命ーーーー支佐加姫命    
安曇族の祭神)|(出雲の海神) |(島根の海神)(住吉の荒魂)
綿積神ーーーーー|        |-------ー猿田彦神ーーー海人安曇族
        |        |
        |・八島土奴美命豊玉彦命ーーーーー豊玉姫命
        |(八島津の海神) (対馬の海神) |      (山幸彦)
        |                 |ーーーーーー天火遠理命海人葛城族
        |・高木神ーーーー栳幡千千姫命   |
         (鴨族の祭神) |      |・天火明命
          大国主命   |------|(彦火火出見命)
          |      |      |・瓊瓊杵命   (海幸彦)
          |-----ー天忍穂耳命    |     |・天火照命ーー阿多隼人族
阿知族の祭神)  |               |---ー |
渡し大神ーーーーーー著玉日良姫命          |     |・天火之進命大隅隼人族
                |・阿多隼人族祖人阿多津姫命
多禰隼人族ーーーーー熊蘇隼人族ー|   +    (木花咲那姫命)
                |・大隅隼人族祖人
鳥取族の祭神)
鳥取神ーーーーーーー八島牟遅神ーーー鳥鳴海神ーーーー海人鳥取族
(新羅の海神)  (八島津の海神)        (斯盧渡し族)



          
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category: (3)国の礎を築いた海人族と渡来先住民の交わり

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日本の国のなりたち  

(4) 国づくりを支えた先住弥生人

(4)・1 日本全土に広がる鴨族の国づくり

 「鴨族」は現在の中国と北朝鮮の国境を流れる鴨緑江、鴨の背羽根の如く深緑色の水が流れる大河を中心に存在する高句麗に居留していた民族の一枝で、北方のツングース系騎馬民族の「馬文化」「農耕文化」「彩色土器文化」「鉄器文化」、の影響と中国の「青銅器文化」の影響を受けた民族で、「鴨族」「農耕文化」「青銅器文化」「鉄器文化」を携えて海人「安曇族」に帯同して筑紫の三輪に渡来した。縄文晩期のことである。「鴨族」は筑紫国の三輪を起点に三つのルートで日本列島の東方に移動する。

①日本海ルート 三輪に渡来した「鴨族」の一枝は三代の事代主に亘って、筑紫(三輪)→出雲出雲鴨族→九頭竜川白山鴨族→新潟信濃鴨族)の拠点に入植、それぞれの拠点を基に国づくりをする。出雲に入植した「鴨族」「青銅器文化」「農耕文化」を携えてやって来た。

②瀬戸内ルート 三輪に渡来した「鴨族」の一枝は五代の事代主に亘って、筑紫(三輪)→安芸津→吉備→神戸→三島三島鴨族)・紀の国太田太田鴨族)・箕島箕島鴨族)・吉野吉野鴨族)・宇陀宇陀鴨族→倭国の三輪の拠点に入植、それぞれの拠点を基に国づくりを展開した。吉備、三島、紀伊地方に入植した「鴨族」「鉄器文化」「土器文化」「農耕文化」を携えてやって来た。

③中央構造線断層帯ルート 三輪に渡来した「鴨族」の一枝は海人「阿知族」に帯同して三代の事代主に亘って、筑紫(三輪)→九州菊川流域→九州曽於船津→大分を経由して伊予伊予鴨族)・讃岐三加茂鴨族→紀の国太田鴨族)→葛城(葛城鴨族)の拠点に入植、それぞれの拠点を基に国づくりを展開した。

 鴨族移動ルート図縮小_convert_20160810120447
        鴨族移動ルート図
 
 「大国主命」を祖神とする「鴨族」の国づくりは海洋民族に助けられて行われた。つまり「鴨族」は海人に運ばれて国づくりをしたのである。

 神話では、初代大物主の「大国主命」の正妃は海人「安曇族」の娘「多紀理姫」で、その子二代大物主の「奇津事代主命」の妃も「安曇族」の娘「美穂姫」であり、その子三代大物主の「美穂津事代主命」の妃も「安曇族」の娘「生魂依姫」であり、又「大国主命」の外妃は海人「阿知族」の娘「鹿屋楯姫」で、その子「味耜高彦根命」の妃は「阿知族」の娘「小倉姫」である。本家筋の事代主三代に亘って妃は海人「安曇族」であり、分家筋の「阿知鴨族」も三代に亘って妃は海人「阿知族」である。「鴨族」は海人に運ばれたことを示している。ここでも海洋民族が日本の建国を導いたと云える。

 また神話では、「大国主命」「須佐男命」の六代後の子孫で、出雲国に降臨し懸命に国づくりに励む姿が語られているが、祖孫たちが日本の各地の国づくりに励んだ事は語られていない。「鴨族」の国づくりは出雲の国づくりに象徴的に語られているのである。

 「大国主命」は曽於船津を発して九州を東回りに宮崎を経由して福岡の三輪に至り、そこから「日本海ルート」で出雲に降臨し、さらに北陸へ東拓した。

 「大国主命」のもう一人の妃「鹿屋楯姫」の子「味耜高彦根命」は分家筋で、「中央構造線断層帯ルート」で葛城に降臨し、葛城の豪族として君臨し、子孫代々「葛城鴨氏」として葛城鴨県主を務める。

 古事記によると「鴨族」の祖神「大国主命」の妃は少なてとも六人いる。「大国主命」は正妃として宗像の「多紀理姫」と、妃としては曽於船津の「鹿屋楯姫」、鳥取の「鳥取姫」、因幡の「八上姫」、越(北陸)の「渟名川姫」、諏訪の「須世理姫」と次々と結婚する。古代の信仰では、その土地の女神と結婚することは、その土地を領有することである。

 神話では、「大国主命」は”国づくりと云うものは一人の力では出来るものではない”と語り、「少名彦命」の力を借りて次々と国づくりをした。また「大国主命」は多くの別名を持っており、その事は多くの大国主がいたか、あるいは「大国主命」の多くの子孫達によって国づくりがなされたことを物語っている。決して「大国主命」一人が国づくりをしたのではないと云う真実を伝えている。

 「鴨族」の国づくりは、例えば海人「安曇族」に帯同して行動すれば、族同士が一体化したものを除いて、入植地の鴨邑の近くには「安曇族」の邑が見られ、「鴨族」は粟、稗など穀物、農産物などを供給し、「安曇族」は塩や海産物を供給し共生関係が培われており、正に「山幸彦」と「海幸彦」の兄弟関係を彷彿とさせるものがある。

[鴨族と海人族との関係系図]

海神安曇族-ーー須世理姫(諏訪)
         |
海神安曇族ーーー渟名川姫(越)
         |
海神安曇族ーーー八上姫(因幡)
         |
海神鳥取族ーーー鳥取姫(鳥取)
         |            生魂依姫
                 美穂津姫   |ーーーーーーー積羽八重事代主(4代大物主)
海神安曇族ーーー多紀理姫(宗像) |----美穂津事代主(3代大物主)
         |ーーーーーー奇津事代主命(2代大物主)
        大国主命(初代大物主)
         |ーーーーーー味耜高彦根命
海神阿知族ーーー鹿屋楯姫(曽於船津)|----鴨都波八重事代主命
                小倉姫

 [鴨族の系譜]

      天国魂命ーーーーーー小倉姫
      (葛城の地主)   |(下照姫)(葛城鴨氏の祖) (夜須)     刺国若姫
                |------鴨部八重事代主 太耳姫      |ー天事代主籖入彦
      神屋楯姫      |     (鴨部彦)    |----ーーーー蕗根命
      |(曽於船津) |・味耜高彦根        |①神立彦     (筑紫三輪)
櫛稲田姫  |-----ーー|(葛城に降臨)       | (曽於船津)
|     |(初代大物主)|・高子姫          |⑫太田部事代主ーーー鴨美良姫
|ーーーーー大国主命                   | (太田彦)    |
|     |(奇杵)   |・島津大人         |⑪簑島彦      |ー阿多津奇根命
須佐男命  |-------|(2代大物主)       |          |(加茂氏の祖)
      |       |・奇津事代主        | 三島溝杭姫  |・天日方奇日方命
      多紀理姫      |(奇彦) (3代大物主)| |      |(鰐彦)↑
      (竹子姫)     |ーーーーーー美穂津事代主| |ーーーーーー|・櫛梨彦継承権移譲
                |      |(美穂彦)|(4代大物主) |(仲彦
                美穂津姫   |-----|②積葉八重事代主|・蹈鞴五十鈴姫
                       |     | (奇甕積葉彦)  |(正妃)
                       生魂依姫  |③吉野御子守彦   神武大王
                             |
                             |④宇陀彦
                             |
                             |⑤~⑩省略

 摂津三島に居留していた「鴨族」本流の四代目大物主「積葉八重事代主命」、「神武東征」で三島に立ち寄った「大王家」に娘「蹈鞴五十鈴姫」を正妃として送り込み支配下に入り、「大王家」の最初の属民となった。「鴨族」の系譜がこの様に残されているのは「大王家」と強い絆で結ばれた証でもある。

 「鴨族」の系譜は四代目大物主以降希薄になっている。その理由は、「神武東征」で海の八咫烏を担い、何年も行動を共にした「天日方奇日方命」「加茂氏」を賜り、「櫛梨命」五代目継承権を譲受し、「鴨族」本流を吸収した事にある。

 この事は系譜の中の筑紫三輪在地の「蕗根命」「刺国若姫」の間の子「天事代主籖入彦」があり、「天日方奇日方命」の出自を正当化するための系図の作為と見られる。

 海の八咫烏「天日方奇日方命」)が「加茂氏」を賜り「鴨族」本流を吸収し、陸の八咫烏「賀茂建角身命」)が「賀茂氏」を賜り「鴨族」分流の「葛城鴨氏族」を吸収し、縄文古来からの古族「鴨族」は晩期(前一世紀頃)には新しい勢力の中に埋没する結果となった。



(4)・2 国づくりを支えた大和国の先住弥生人

摂津国の先住弥生人 古くは山背国の三島県、現在の茨木市、高槻市、淀川を挟んで寝屋川市、枚方市当たりに居住していた「神武東征」で陸の八咫烏として功績のあった「建角身命」の祖先の「陶族」の「陶津耳命」と三島に居住していた導水溝建設や陶土づくりの水簸技術、水配りなどの技術をもつ「溝咋族」の「溝咋耳命」「三島鴨族」先住弥生人として住んでいた。そして「陶族」「溝咋族」は兄弟関係にある。弥生後期に水稲耕作が入って来ると同時に「溝咋族」「三島鴨族」に吸収された。

倭国の先住弥生人 古くは磯城県、現在の五条市、御所市、大和高田市、橿原市、桜井市などに当たる地域、及び吉野、宇陀地区には縄文時代に九州の曽於船津から「丹の道ルート」で葛城に渡来した「鴨族」の分家筋の「味耜高彦根命」の子孫の「葛城鴨族」や帯同した海人「阿知族」の子孫である「磯城族」、同じく一枝の「阿知馳(土師)族」「丹の道ルート」で葛城高尾張に入植した海人「阿知族」「天火遠理命」(天尾張命・山幸彦)の子孫である「葛城族」(星からやって来たと云われる原住民系縄文人「葛城赤星」)や「宇陀鴨族」、吉野には「吉野鴨族」先住縄文・弥生人として住んでいた。

紀の国の先住弥生人 現在の和歌山市、有田市などに当たる地域の太田郷には「太田鴨族」が、荒賀郷には「紀の国丹生族」が、さらに有田郷には「箕島鴨族」先住弥生人として住んでいた。

 これら先住弥生人は「稲作文化」「陶器文化」など文化を培い日本の国づくりの礎を築いた。


        













category: (4)国づくりを支えた先住弥生人

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tag: 先住弥生人  鴨族  出雲鴨族  三島鴨族  太田鴨族  葛城鴨族  陶津耳族  溝咋族  紀の国丹生族  吉野丹生族 
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日本の国のなりたち  

(5) 大和国の成立は「神武東征」から始まる

(5)・1 日向の海人系豪族の東拓

 「神武東征」は古代史上初めて「海洋国家日本のあけぼの」としての国生みの真実が明らかになる。

 神話では、天祖「天照大御神」の神勅により、「天忍穂耳命」に見送られて天孫「瓊瓊杵命」が高天原から高千穂の峰に降臨し、そこで皇基(皇室の礎)を建て、子の「彦火火出見命」や孫の「鵜葦草葺不合命」や曾孫の「磐余彦命」など子孫代々が葦原中国を開拓したと云う。

 「鵜葦草葺不合命」の子「磐余彦命」(後の神武天皇)は海辺に現れた「塩土老翁」に「東に美しい土地があり、先に下見に行った者がいる」と知恵を授けられ、兄の「五瀬命」に相談し、東に「新天地」を求め大和を目指し日向の美々津を出航し、東拓の旅に出たのが「神武東征」の始まりであると云う。

 十六年の歳月を費やし、途中兄の死や様々な苦難の連続であったが、天命を受けて苦難を乗り越えて大和の地に入り、橿原で即位し「神倭磐余彦命」と称し、天下を治めたと云う。国生み神話の始まりである。

 国生み神話は、十代「崇神大王」の代に諸国を併合、統一するために創基されたもので、『諸氏が居留する諸国は全て「天照大御神」が創生した国であり、神裔が統治する国である』と云う「天孫降臨」を皇基とする「神国思想」に基づいた物語である。国づくりにとって最も重要な事は「大王家」の出自問題であり、「神国思想」を掲げて天下統一を図ったのである。上古の伝承に基づいて想起されていると云うものの、王権にとって権威上都合の悪い事は作為され隠されている。神話の表裏を読み解いていく事が肝要である。

「記紀」による「神武東征」の物語のあらすじは次の通りである。
天孫「鵜葦草葺不合命」の子「磐余彦命」が新天地を求め三人の兄「五瀬命」「稲飯命」「三毛沼命」と子息「手研耳命」の一族を引連れて、日向を出航し、「瀬戸内ルート」で東へ向い、大和の入り口河内湖に至るが、そこで生駒山の土着民の「長髄彦」の抵抗に遭い、先見役の「饒速日命」から熊野への迂回を進言され、熊野へ向う途中男の水門で長兄の「五瀬命」が死亡し、熊野新宮沖で二人の兄が遭難死し、四兄弟の内「磐余彦命」のみが生き残った。

 「磐余彦命」は子息「手研耳命」と共に陸路八咫烏の案内を得て、熊野から大和へ入るが、大和へ先回りした先見役の「饒速日命」が高倉山頂に現れ、周辺に八十梟の軍勢が構えていることを告げ、物語の場面から消え去った。「磐余彦命」はこの地の豪族「弟磯城」と懐柔し無事大和入りを果した。「天照大御神」の天孫として橿原の地で即位し、初代天皇「神倭磐余彦命」を拝命した。

 「神倭磐余彦命」は新天地で正妃を娶り三人の皇子「彦八井耳命」「神八井耳命」「渟名川耳命」を儲けるが、三皇子は皇位継承を巡り、嫡子「手研耳命」が皇位を狙っているのを知り、「手研耳命」を射殺した上、兄「彦八井耳命」と弟「神八井耳命」は末弟の「渟名川耳命」に継承権を譲り、「渟名川耳命」が皇位を継承した。皇位を譲った二人の兄弟は皇統から姿を消した弟「神八井耳命」は皇統の外に出て皇室の支援をする事になった。そして「意富氏族」の祖神として多神社に祀られた。

 「九州南部に入植した一族が当地の国土を開拓するも、新たに新天地を求め東征をした」と云う国土創生の物語は真実を伝えているが、「国の始まる以前から天祖がいて、天孫が代々皇位を継承し、国を治める」と云う「神国思想」は現世では通用しない概念であり、この事象を現実の世界に引き戻して考える事から謎解きが始まる。実在した人物は誰々か?、「天照大御神」、「天忍穂耳命」、「瓊瓊杵命」、「彦火火出見命」、「鵜葦草葺不合命」、「磐余彦命」等々それぞれ誰か?を特定して、出自の謎を解く事が真実を明らかにする事である。

 「記紀」の「神武東征」編に登場し、途中物語の本筋から消え失せた神(捨て石として人物登場させた神)を整理して見ると、「磐余彦命」の四人兄弟の内の三人の兄達「五瀬命」「稲飯命」「三毛沼命」「磐余彦命」の子の四人兄弟の三人の兄達「手研耳命」「彦八井耳命」「神八井耳命」、さらに先見役として派遣された「饒速日命」、生駒山で抵抗勢力として現れた「長髄彦」(消された神と云うよりもすり替えられた神)が登場するが死亡したり、殺りくされたり、退場したり、すり替えられたりして物語の本筋から消え失せた。

 登場人物の身分や立場から見ると三つの消された理由が考えられる。
「神武天皇」の四人の兄弟が登場するが、三人の兄が不慮の事故で死亡したのは、天皇家の皇統継承が争うことなく自然に継承された事を示す意図があった。
「神武天皇」の四人の皇子が登場するが、皇統継承者を残して他の三人の皇子が死亡したり役目を終えたのは、皇統の中に天神でない地祇の存在があってはならない事から、天孫降臨の系譜上そぐわない実存神を抹消する意図があったと考える。
「神武東征」の大和入りには種々の抵抗勢力が現れて一行の進路を阻んできたが、先見役の「饒速日命」によって犠牲を未然に防ぎ、無事目的地入りを果たした。又「神武天皇」の側近中の側近「長髄彦命」が生駒山に現れて、大和入りを阻止する抵抗勢力の「長髄彦」に仕立てたのは、神の力をしても超えられない程の困難に耐え、苦難の末に東征事業に成功した一行の偉大性を称え、正当な手段で倭国を獲得したと云う「国の成り立ち」を強調する意図があったと考える。

 「天照大御神」から「神武天皇」に至る「天孫降臨」の出自に祖語がない様に「神国思想」に照らして都合の悪いものを削ぎ落とした。上古の伝承や事跡など歴史的事象を「神国思想」に副って焼直したと云える。皇統の中で天孫(天神)に該当しない神(地神)を登場させない事で、皇統継承の正統性と天皇権威の絶対性を説く「神国思想」は倭国家統合に於いて絶対に必要な事であったと云える。

 皇統の中に名を連ねるに具合の悪い神は『「磐余彦命」を冠せられた実存神』である。その神は「彦八井耳命」であり「神八井耳命」である。「彦八井耳命」「神八井耳命」は系譜上「神倭磐余彦命」の皇子となっているが、古代において家来など従属する者は子として扱われる。それは決して主人の前に出てはならないからである。本来ならば子ではなく「神倭磐余彦命」と同列にいた神であると思われる。

 また別の知見からすると、「阿蘇氏系図」によると「彦八井耳命」の弟の「神八井耳命」「意富族」等の祖で、子の「建磐龍命」や兄達は阿蘇地方の国づくりに務め、九州鎮護と国土統一の事業の一翼を担い、九州阿蘇地方を中心に繁栄した系統の豪族で、「火君」、「大分君」、「阿蘇君」、「筑紫三宅連」、「雀部臣」、「小長谷造」、「都祁直」、「伊余国造」などを輩出したと云われている。兄「彦八井耳命」弟「神八井耳命」は元々日向在地の豪族で、弟「神八井耳命」五ケ瀬川を遡上し阿蘇地方に進出し、阿蘇地方に朝鮮半島の阿羅から渡来した「意富族」と交わり吸収した事から、「意富氏族」の祖とされている。この様に日向を拠点として九州を支配した大豪族が存在していた事が覗える。

 阿蘇開拓図縮小_convert_20160810115859
  日向隼人族「鵜葦草葺不合命」の息子達の兄「彦八井耳命」は東拓へ、弟「神八井耳命」は阿蘇開拓へ旅立った。

 諸々の考察から「神武東征」で大和へ渡来した「磐余彦命」は実は日向の豪族「彦八井耳命」であると結論づけるに至った。そして先見役として東征を成功裏に導いたと云う「饒速日命」は、新天地開拓をめざし、東征を見事に成功させた「彦八井耳命」と同一神(同一人物)であると結論づける。この結論に至った瞬間、小生の喉に二十五年間も痞えていた「神武東征」の謎と云う棘(トゲ)が抜け落ちた。

[阿蘇氏系図+私案系譜]

磯城族ーーーーーーーーー伊須気依姫命
             |-----ー磯城河俣姫命
                     |
積羽八重事代主ーーーーー蹈鞴五十鈴姫命  |ーーーー安寧大王
             |       |
             |----ー綏靖大王
             |
           神武大王
         |・↑彦八井耳命(兄)
         | (東征)
鵜葦草葺不合命ーー|                          若姫命
         |(意富神社祭神) (阿蘇神社祭神)           |
         |・神八井耳命(弟)ー健磐龍命               |ーーー阿蘇氏
          (阿蘇開拓)     |    (阿蘇神社祭祀者)   |
                     |ーーーーー速瓶玉命ーーーーー彦御子命
                     |    (阿蘇国造の祖)
                    阿蘇津姫命


(5)・2 新天地をめざしていざ出発

 「日向隼人族」系豪族「鵜葦草葺不合命」の子「彦八井耳命」「日向隼人族」の頭)が速吸の瀬戸を乗り切る航海術に長けた海人「天多禰伎命」「多禰隼人」「日向隼人族」)に舟同して、日向の美々津を出発し宇佐津へ着いた。宇佐津から筑紫の岡田津へ移動し瀬戸内海の航海に長けた「阿多隼人族」「安日彦(大日諸)族」に協力を願い外洋船の大舟を調達し、大勢の協力者を従え大船団を組んで、大和を目指して筑紫岡田津を出航したのが「神武東征」の発端である。

 古事記の記載によると宇佐を経て岡田宮(福岡県)で一年、多祁理宮(広島県)で七年、高島宮(岡山県)で八年を過ごした後茅渟海に入り三島江に至る。彼らを運んだのは「阿多隼人族」の海人「安日彦命」「大日諸命」)、妹「三炊屋姫命」、弟「長髄彦命」の三人兄妹弟と海人「大隅隼人族」であり、多祁理宮直近の航海の拠点大三島を経て三島に至る。多祁理宮の地と高島宮の地、三島江の地は共に先住縄文人「鴨族」の入植地でもある。

 日向を出航し宇佐を経て岡田宮に寄港し大三島に至るまでは「阿多隼人族」の海人「安日彦族」が舟運帯同した。大三島から三島江まで「阿多隼人族」「天日方奇日方命」(後に八咫烏の功績で賜った名前)が八咫烏(航海の案内役)の役割を担った。又渟名川(淀川)の河口にある大隅島を拠点にする「大隅隼人族」「椎根津彦命」が吉備国の拠点まで出迎えに行き、高島宮から三島江までの水先案内役を担い、一行は無事三島に入植する事になる。日向を出航して三島に至るまで十六年の年月を費やしている。

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    「神武東征」一行船団のイメージ図

 岡田宮の一年は小舟から大舟への乗り換えや船団の整備、食料、水、櫂子などの調達、準備や特に古代舟は潮流や季節風の力を借りなければ航海は難しいため潮待ち、風待ちに費やしたであろう。

 多祁理宮高島宮で七~八年費やしているのはなぜだろう。多祁理宮高島宮の造営地は「鴨族」の入植地であり食料の調達には誠に好都合であった。多祁理宮直近の大三島の拠点は船が着岸できる浜があり、水補給できる湧き水があり、舟を造る巨木がある数少ない島であるが、稲作には不向きであったため多祁理宮の地に頼らざるを得なかった。

 高島宮直近の拠点港は吉備の児島湾の河口にあえう小さな島で陸から全てのものを調達せざるを得ないために、食料や物資を調達するために「鴨族」の住む陸地に宮を造営した。

 縄文時代後期に入植した「鴨族」陸稲耕作を営み、収量は上がらず自給自足が精一杯であったと思われる。「彦八井耳命」は持って来た水稲種籾水稲耕作を試みて、目途が立つのに七~八年を費やしたと見る。

 「彦八井耳命」(後の「神武天皇」)はなぜ水稲種籾を持って東征したのか? 何を以って大王の地位に登り詰めたのか? 「神武東征」は交易による「稲作文化」の伝播の物語であったと考える。

 九州豊国の日向には縄文時代に南方から陸稲耕作が伝わり弥生時代後期には九州北部から水稲耕作が入って来た。しかし南国系陸稲種籾は南国日向では良く育ったが北方系水稲種籾は南国日向では育ちにくかった上、日向の地は旧石器時代から弥生時代初期にかけて五箇所にも亘る火山大噴火に見舞われ、降灰の積み重ねにより形成された火山台地の低湿地であり、十分な水田可耕地を得ることが出来なかった。

 旧石器時代に姶良沖の鹿児島湾カルデラ、一万年前の縄文時代草創期に櫻島、四千年前の縄文時代早期に鬼界島カルデラ、三千年前の縄文時代前期に池田湖カルデラ、二千年前の縄文時代後期に開聞岳が大噴火して、なかでも鬼界島カルデラの大噴火の降灰は九州豊後地方、四国、瀬戸内海、紀伊半島南部まで広範囲に及んでいる。

 この様な理由から日向の海人系豪族「彦八井耳命」は良く育つ耕作地を求めて日本列島(大八島)の東方を目指して開拓に乗出し、水稲種籾を最大の交易品として、「水稲耕作文化」の伝播を計ったのではないかと考えるに至った。

 最初の立ち寄り先の多祁理宮で試験耕作を繰り返すも、耕作条件が今一で、さらに東方の吉備国に立ち寄り試験耕作をするも河川の氾濫や塩害などに遭い思う様にはいかなかった。しかし児島湾での塩田開拓は条件的に勝れうまくいき、「鴨族」にも製法を伝授し、交易品の一つに育て上げた。

 さらに東方に舟を進め三島の地に辿り着いた。この地には在来弥生人の「陶族」とその兄弟の「溝咋族」と「三島鴨族」が居住していた。「溝咋族」の祖先は前八~九世紀頃弥生時代早期に摂津の茨木市を流れる安威川中流左岸の中津付近、牟礼遺跡や溝咋神社が鎮座する地域に降臨、居住した。「溝咋族」は原土を採取、粉砕、水簸し陶土をつくる技術や舟運交通の運河や環濠、河川の洪水を防ぐ疎水や堰、水田への取水溝などの導水施設をつくり、多方面に水を分配する水繰りの技術を持ち合わせ、「鴨族」の農耕技術、摂津地方の水利条件、水稲種籾が出会って日本列島(大八島)の最初の水稲耕作に成功し、「稲作文化」の革命を起した。高槻市の「安満遺跡」は日本列島最古の大規模水田遺跡である。また茨木市の「牟礼遺跡」は舟運による道として運河に護岸杭を打って造成した最古の遺跡である。

 三島鴨神社縮小1_convert_20160813124200 溝咋神社B縮小1_convert_20160813124840
  祖神「積葉八重事代主命」を祀る三島鴨神社と祖神「溝咋耳命」を祀る溝咋神社

 溝咋神社縁起A縮小1_convert_20160813125358 安満遺跡D縮小1_convert_20160814171851
  溝咋族は水田に水を引いた神である事を示す神社縁起と日本最古の大規模水田遺構である安満遺跡

 水稲耕作に成功した「彦八井耳命」は三島の地に十数年滞在することになるが、「溝咋族」、「三島鴨族」を吸収一体化し、三島を饒(ゆたか)な土地に育て、三島の大豪族として君臨し「登美饒速日命」と称せられた。登美は豊耳(豊国の長)の意である。


      

category: (5)大和国の成立は「神武東征」から始まる

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