好々彦の神代文化考

神話と系譜と足跡を元に”古代人の生き様”を読み解き、新しい古代史の視点を提案する。きっとあなたの古代史観が変わる!                                                              

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日本の国のなりたち  

(6)大和朝廷のスタート
(6)・1 三島に入植した「登美饒速日命」

 「登美饒速日命」は筑紫から舟運帯同した海人「安日彦命」「大日諸命」)の妹「三炊屋姫命」を妃とし「宇摩志麻遅命」を儲け、「宇摩志麻遅命」三島の味舌に住むが父の倭入りに帯同して三輪に住むことになる。

 「安日彦命」三島の安威川流域の水利権を得て、阿為神社が鎮座する安威地方を拠点とし交易活動をするが、娘を「登美饒速日命」の子で初代「物部氏」を賜った「宇摩志麻遅命」に嫁がせ、「物部氏」海部を代々務めることになり、日本列島全域の制海権を得ることになる。

 「宇摩志麻持命」に嫁いだ娘は「味饒田命」を儲け、三島の芥川(阿久斗川)流域の水利権を得て阿久刀神社が鎮座する郡家本町辺りに拠点を置き、代々三島県主を務めることになる。

 「安日彦命」の弟の「長髄彦命」三島江の対岸の渚郷に一時居住するが「登美饒速日命」に帯同して倭入りし、「倭朝廷」が成立すると「登美」の姓を賜り、「登美長髄彦命」として代々「倭朝廷」「忌部」を賜り、お田植え神事、冠婚葬祭など「大王家」の重要神事や食料、物資、人材等の調達、管理、日常茶飯事など庶務全般を司った。

 「登美饒速日命」「溝咋族」と一体化した「三島鴨族」(四代大物主「積羽八重事代主命」)の娘「蹈鞴五十鈴姫命」を正妃として迎え、倭の磐余地区に共に入植し、二代「綏靖大王」を儲ける。蹈鞴は水遣り蹈鞴(足踏み水車)の意で、五十鈴は五十津で、水遣り蹈鞴を沢山設置した溝を持つ「溝咋族」の娘と云う意味である。

 古代三島は意外と知名度が低い。一般的に渡来人が入植し交流した地は、ある意味で地名変更などが頻繁になされ、その地域の歴史や痕跡を打ち消して、新しい文化を導入し、近代化が図られている場合が多いが、特に京阪神間の幹線は急速な地域開発に曝され、古代の痕跡がほとんど残されていないが、現在の高槻市、茨木市には三島郡三島町耳原登美の里味舌安威安威川芥川芥川町五十鈴町太田内里阿久斗神社阿為神社溝咋神社三島鴨神社など古代の名残りのある地名や史跡などが多くあり、『倭への玄関口』であった事が今でも伺える。

(6)・2 「登美饒速日命」倭へ入植

 「登美饒速日命」はいよいよ倭国の開拓へと道を進めることになる。淀川を挟んで三島の東側にある牧野・山田の谷で須恵器を焼いていた「陶族」「陶津耳」(後の「賀茂建角身命」、祖先は三島に降臨した「大歳神」)が陸路の八咫烏の役目を担う。「陶津耳」山城の地(現在の高槻市、枚方市、交野市、奈良市、天理市、桜井市などに亘る)の広大な地域で陶土(赤土、白土)の探査、採取をし、土地柄を自分の庭のように知り尽くしていた。

 「登美饒速日命」日向を出て三島に至るまで行動を共にした協力者の「三炊屋姫命」との間で儲けた「宇摩志麻遅命」、そして「三炊屋姫命」の弟「長髄彦命」、海人「阿多隼人族」、海人「大隅隼人族」、さらに水稲耕作を共に成功させた「三島鴨族」を帯同して陸の八咫烏「陶津耳命」に案内されて倭の磯城の地に入植した。

 神話では、「神武一行」の倭入りは生駒山で原住民の「長髄彦」に阻まれ迂回を余儀なくされたとある様に、この時代は陸路がなく生駒連峰を越えて倭入りするのは全く不可能であったため、一行は三島江の対岸の白肩の津(枚方)に渡り天の川を舟運遡上し、私市の滝壁に阻まれると陸路磐船越えを迂回する閖上の道で高山から富雄川の源流に至り、富雄川を下り大和川との川合に至り、さらに大和川を遡上し磯城の地の桜井辺りに至る。一行は一挙に移動したのではなく、富雄川周辺の矢田丘陵など砂茶屋の大和田や河合の大輪田近辺には「阿多隼人族」が生活拠点を設けた。彼らは後に添県主の祖となる。

 「登美饒速日命」は磯城・葛城地方の先住弥生人の「磯城族」「葛城鴨族」(「味耜高彦根命」の係族)と交わり、「葛城鴨族」に水稲耕作を伝授した。磯城・葛城地方は高田川や葛城川や曽我川の水利環境がよく水稲耕作に最適の地で「秋津嶋」と呼ばれ、また「三島鴨族」水繰り技術水稲種籾が相まって水稲耕作が一挙に広がった。「秋津遺跡」「玉手遺跡」などは縄文時代の大規模水田遺跡である。「葛城鴨族」は代々葛城地方の水稲耕作を担い、子孫は代々「葛城賀茂氏」を名乗り、葛城鴨の県主を務めた。

 高鴨神社C縮小1_convert_20160813115645 秋津遺跡C縮小1_convert_20160813120401
  葛城鴨族が水田耕作を営んでいた秋津洲の居住跡と彼らの祖先(味耜高彦根命)を祀る高鴨神社

 玉手遺跡A縮小1_convert_20160813122601 中西遺跡D縮小2_convert_20160813123237
  縄文時代に水田耕作が営まれた玉手遺跡(左)と弥生時代に水田耕作が営まれた中西遺跡の全景(右)

 「登美饒速日命」は磯城・葛城地方でも「稲作文化」の革命を起し、大豪族として君臨し、さらに先住弥生人の海人「葛城族」や「出雲土師族」と交わり、磯城・葛城県の一大豪族に登り詰めた。

(6)・3 倭で即位倭朝廷の誕生

 「登美饒速日命」は橿原の地に居館を構え、「大王」の地位に就く(即位する)。時は前六百六十年(縄文時代)、「神倭磐余彦命」(後世には「神武大王」)と称した。

 日向の「日向隼人」系豪族「彦八井耳命」は出征魚の鰤(ブリ)の如く「彦八井耳命」→「登美饒速日命」→「神倭磐余彦命」→「神武大王」→「神武天皇」と出世するにつれて時代と共に呼称が尊称へと変わっていった。「神武大王」は「稲作文化」の革命を起し、水稲耕作によって「倭朝廷」を興したと云っても過言ではない。現在の皇室に於いて営々と「神嘗祭」「新嘗祭」お田植え神事が行われたり、皇祖神「天照大御神」を祀る神宮の最重要神事がお田植え神事であると云うのは、この事を証明している。

 東征の協力者には論功行賞で臨んだ。最大の協力者「安日彦命」兄弟妹は「登美」の称号を賜った。妹の「三炊屋姫命」「登美夜須姫命」と称し神武大王妃に、弟の「長髄彦命」「登美長髄彦命」と称し、代々「朝廷」「忌部」を賜り、兄の「安日彦命」「登美安日彦命」と称し、三島の安威川の水利権と代々大阪湾沿岸と紀伊水道、紀伊半島の制海権を賜る。彼らの祖先「太玉命」「登美命」と称するようになった。

 「安日彦命」の子孫代々は「物部氏」と結び付き「物部氏」海部として九州一円、瀬戸内海、日本海の海域や河内や大和川水系、熊野、伊勢湾、三河湾、さらに東北の開拓をすることになる。

 「阿多隼人族」「天日方奇日方命」は東征の八咫烏の役を担い、その功績により「加茂氏」の称号と「太田鴨族」の領地紀の国の一部日方湾吉備湾、及び紀ノ川の水利権紀の国吉備湾から吉備国に至る紀伊水道、大阪湾、播磨灘、瀬戸内海の制海権を賜り、子孫たちは「大隅隼人族」「倭氏」「出雲土師族」と交わり、紀の国「大伴氏」の祖となり、伊勢国の開拓に乗出すことになる。

吉備国高島から摂津国三島までの水先案内の役割を担った「大隅隼人族」「椎根津彦命」「倭氏」の称号と渟名川(淀川)と茅渟海(河内湖)と大和川水利権を賜る。

 陸の八咫烏の役割を担った「陶津耳命」「賀茂氏」の称号を賜り、「賀茂建角身命」と称し、加茂川(木津川、小椋池、宇治川、桂川、鴨川)水系の水利権山城の地を賜り、木津川中流の岡田加茂に拠点を置き、以北の広大な国土の開拓を進める。「建角身命」の子孫「賀茂剣根命」葛城の国造となり権勢を揮い、その子孫は山城国山代国山背国を拓き、加茂県主「木津氏」「舟木氏」「宇智氏」などを輩出する。

 権力を得た「神武大王」御食持「朝廷」の主食米を代々献納する豪族)としての「葛城鴨族」を掌握し、そこに在地する豪族の「磯城族」磯城県主「黒速」「弟磯城」)と血縁関係を結び、さらに須恵窯や須恵器の製作や葬祭、造墓、造殿を仕切る桜井出雲地区在地豪族の「出雲土師族」とも血縁関係を結び、さらに紀の国湾岸の舟運を掌る海人「阿多鴨族」を掌握し、さらに大和川茅渟海(河内湖)、渟名川(淀川)の舟運を掌る海人「大隅隼人族」を掌握した。

 この様に強大な権力を得た「倭朝廷」は「米」と「水」と「火」と云う人間生活にとって根源的な糧を押さえると共に、生活環境の全てを掌握したのが最大のポイントである。正に陸と海の要所を固めた権力構造を構築した。

 この様にして「倭朝廷」はスタートするが、初代から四代「懿徳大王」までは「磯城族」との血縁関係を強固にし、八代「孝元大王」までは海人「倭氏」との血縁関係を強固にし、四代から八代までは海人「葛城族」との血縁関係を強固にした。以降は身内の「物部氏」や新羅などからの「渡来技術者集団」を抱える豪族との血縁関係を強固にし、「倭朝廷」の権力基盤をより一層強固なものにした。

 倭朝廷の権力構造と系譜の概要

       |・長髄彦命
太玉命ーーーー|・安日彦命ーーーーーー安日彦命の娘
(宇佐津彦) |・三炊屋姫命      |ー------ーー味饒田命
          |ーーーーーーーー宇摩志麻遅命      |--------神日子命
                   日下部馬津久留久美ーー阿野姫   (阿刀部ー物部氏の海部)

阿多隼人族ーーーー天日方奇日方命ーーー阿多津奇根命
                    |------ーーー渟名底仲姫命
大隅隼人族ーーーー椎根津彦命ーーーーー渟名建姫        |
                               |
三島鴨族ーーーーー蹈鞴五十鈴姫命               |------ーー④懿徳大王
          |ーーーーーーーー②綏靖大王       |
鵜葦草葺不合命ー|↓彦八井耳命      |         |
        |↓登美饒速命      |----ーーーー③安寧大王
        |・神武大王・      |
          |ーーーーーー|・磯城河俣姫命              (窯焚きの神)
磯城族ーーーーー|・伊須気依姫命 |・出雲神門臣ーーーーーー出雲沙麻奈姫ーーーー建甕槌命
(出雲土師族) |・磯城黒速命ーーーー出雲臣ーーーーーーーー出雲鞍山祗姫ーーーー大部主命
                                       (大伴氏の祖)
          |--------天香語山命ーーーーーー天村雲命ーーーー|・天忍男命
天火遠理命ーーー|・天道日女命                       |・天忍人命
(葛城族)   |・高倉下命ーーーーー天津彦根命ーーーーーー天御影命    |・御蔭命


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category: (6)大和朝廷のスタート

thread: 歴史 - janre: 学問・文化・芸術

tag: 登美饒速日命  蹈鞴五十鈴姫  神武大王  倭朝廷  安日彦命  三島鴨鴨族  溝咋族  陶津耳族  葛城鴨族  稲作文化 
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日本の国のなりたち  

(5) 大和国の成立は「神武東征」から始まる

(5)・1 日向の海人系豪族の東拓

 「神武東征」は古代史上初めて「海洋国家日本のあけぼの」としての国生みの真実が明らかになる。

 神話では、天祖「天照大御神」の神勅により、「天忍穂耳命」に見送られて天孫「瓊瓊杵命」が高天原から高千穂の峰に降臨し、そこで皇基(皇室の礎)を建て、子の「彦火火出見命」や孫の「鵜葦草葺不合命」や曾孫の「磐余彦命」など子孫代々が葦原中国を開拓したと云う。

 「鵜葦草葺不合命」の子「磐余彦命」(後の神武天皇)は海辺に現れた「塩土老翁」に「東に美しい土地があり、先に下見に行った者がいる」と知恵を授けられ、兄の「五瀬命」に相談し、東に「新天地」を求め大和を目指し日向の美々津を出航し、東拓の旅に出たのが「神武東征」の始まりであると云う。

 十六年の歳月を費やし、途中兄の死や様々な苦難の連続であったが、天命を受けて苦難を乗り越えて大和の地に入り、橿原で即位し「神倭磐余彦命」と称し、天下を治めたと云う。国生み神話の始まりである。

 国生み神話は、十代「崇神大王」の代に諸国を併合、統一するために創基されたもので、『諸氏が居留する諸国は全て「天照大御神」が創生した国であり、神裔が統治する国である』と云う「天孫降臨」を皇基とする「神国思想」に基づいた物語である。国づくりにとって最も重要な事は「大王家」の出自問題であり、「神国思想」を掲げて天下統一を図ったのである。上古の伝承に基づいて想起されていると云うものの、王権にとって権威上都合の悪い事は作為され隠されている。神話の表裏を読み解いていく事が肝要である。

「記紀」による「神武東征」の物語のあらすじは次の通りである。
天孫「鵜葦草葺不合命」の子「磐余彦命」が新天地を求め三人の兄「五瀬命」「稲飯命」「三毛沼命」と子息「手研耳命」の一族を引連れて、日向を出航し、「瀬戸内ルート」で東へ向い、大和の入り口河内湖に至るが、そこで生駒山の土着民の「長髄彦」の抵抗に遭い、先見役の「饒速日命」から熊野への迂回を進言され、熊野へ向う途中男の水門で長兄の「五瀬命」が死亡し、熊野新宮沖で二人の兄が遭難死し、四兄弟の内「磐余彦命」のみが生き残った。

 「磐余彦命」は子息「手研耳命」と共に陸路八咫烏の案内を得て、熊野から大和へ入るが、大和へ先回りした先見役の「饒速日命」が高倉山頂に現れ、周辺に八十梟の軍勢が構えていることを告げ、物語の場面から消え去った。「磐余彦命」はこの地の豪族「弟磯城」と懐柔し無事大和入りを果した。「天照大御神」の天孫として橿原の地で即位し、初代天皇「神倭磐余彦命」を拝命した。

 「神倭磐余彦命」は新天地で正妃を娶り三人の皇子「彦八井耳命」「神八井耳命」「渟名川耳命」を儲けるが、三皇子は皇位継承を巡り、嫡子「手研耳命」が皇位を狙っているのを知り、「手研耳命」を射殺した上、兄「彦八井耳命」と弟「神八井耳命」は末弟の「渟名川耳命」に継承権を譲り、「渟名川耳命」が皇位を継承した。皇位を譲った二人の兄弟は皇統から姿を消した弟「神八井耳命」は皇統の外に出て皇室の支援をする事になった。そして「意富氏族」の祖神として多神社に祀られた。

 「九州南部に入植した一族が当地の国土を開拓するも、新たに新天地を求め東征をした」と云う国土創生の物語は真実を伝えているが、「国の始まる以前から天祖がいて、天孫が代々皇位を継承し、国を治める」と云う「神国思想」は現世では通用しない概念であり、この事象を現実の世界に引き戻して考える事から謎解きが始まる。実在した人物は誰々か?、「天照大御神」、「天忍穂耳命」、「瓊瓊杵命」、「彦火火出見命」、「鵜葦草葺不合命」、「磐余彦命」等々それぞれ誰か?を特定して、出自の謎を解く事が真実を明らかにする事である。

 「記紀」の「神武東征」編に登場し、途中物語の本筋から消え失せた神(捨て石として人物登場させた神)を整理して見ると、「磐余彦命」の四人兄弟の内の三人の兄達「五瀬命」「稲飯命」「三毛沼命」「磐余彦命」の子の四人兄弟の三人の兄達「手研耳命」「彦八井耳命」「神八井耳命」、さらに先見役として派遣された「饒速日命」、生駒山で抵抗勢力として現れた「長髄彦」(消された神と云うよりもすり替えられた神)が登場するが死亡したり、殺りくされたり、退場したり、すり替えられたりして物語の本筋から消え失せた。

 登場人物の身分や立場から見ると三つの消された理由が考えられる。
「神武天皇」の四人の兄弟が登場するが、三人の兄が不慮の事故で死亡したのは、天皇家の皇統継承が争うことなく自然に継承された事を示す意図があった。
「神武天皇」の四人の皇子が登場するが、皇統継承者を残して他の三人の皇子が死亡したり役目を終えたのは、皇統の中に天神でない地祇の存在があってはならない事から、天孫降臨の系譜上そぐわない実存神を抹消する意図があったと考える。
「神武東征」の大和入りには種々の抵抗勢力が現れて一行の進路を阻んできたが、先見役の「饒速日命」によって犠牲を未然に防ぎ、無事目的地入りを果たした。又「神武天皇」
の側近中の側近「長髄彦命」が生駒山に現れて、大和入りを阻止する抵抗勢力の「長髄彦」に仕立てたのは、神の力をしても超えられない程の困難に耐え、苦難の末に東征事業に成功した一行の偉大性を称え、正当な手段で倭国を獲得したと云う「国の成り立ち」を強調する意図があったと考える。

 「天照大御神」から「神武天皇」に至る「天孫降臨」の出自に祖語がない様に「神国思想」に照らして都合の悪いものを削ぎ落とした。上古の伝承や事跡など歴史的事象を「神国思想」に副って焼直したと云える。皇統の中で天孫(天神)に該当しない神(地神)を登場させない事で、皇統継承の正統性と天皇権威の絶対性を説く「神国思想」は倭国家統合に於いて絶対に必要な事であったと云える。

 皇統の中に名を連ねるに具合の悪い神は『「磐余彦命」を冠せられた実存神』である。その神は「彦八井耳命」であり「神八井耳命」である。「彦八井耳命」「神八井耳命」は系譜上「神倭磐余彦命」の皇子となっているが、古代において家来など従属する者は子として扱われる。それは決して主人の前に出てはならないからである。本来ならば子ではなく「神倭磐余彦命」と同列にいた神であると思われる。

 また別の知見からすると、「阿蘇氏系図」によると「彦八井耳命」の弟の「神八井耳命」「意富族」等の祖で、子の「建磐龍命」や兄達は阿蘇地方の国づくりに務め、九州鎮護と国土統一の事業の一翼を担い、九州阿蘇地方を中心に繁栄した系統の豪族で、「火君」、「大分君」、「阿蘇君」、「筑紫三宅連」、「雀部臣」、「小長谷造」、「都祁直」、「伊余国造」などを輩出したと云われている。兄「彦八井耳命」弟「神八井耳命」は元々日向在地の豪族で、弟「神八井耳命」五ケ瀬川を遡上し阿蘇地方に進出し、阿蘇地方に朝鮮半島の阿羅から渡来した「意富族」と交わり吸収した事から、「意富氏族」の祖とされている。この様に日向を拠点として九州を支配した大豪族が存在していた事が覗える。

 阿蘇開拓図縮小_convert_20160810115859
  日向隼人族「鵜葦草葺不合命」の息子達の兄「彦八井耳命」は東拓へ、弟「神八井耳命」は阿蘇開拓へ旅立った。

 諸々の考察から「神武東征」で大和へ渡来した「磐余彦命」は実は日向の豪族「彦八井耳命」であると結論づけるに至った。そして先見役として東征を成功裏に導いたと云う「饒速日命」は、新天地開拓をめざし、東征を見事に成功させた「彦八井耳命」と同一神(同一人物)であると結論づける。この結論に至った瞬間、小生の喉に二十五年間も痞えていた「神武東征」の謎と云う棘(トゲ)が抜け落ちた。

[阿蘇氏系図+私案系譜]

磯城族ーーーーーーーーー伊須気依姫命
             |-----ー磯城河俣姫命
                     |
積羽八重事代主ーーーーー蹈鞴五十鈴姫命  |ーーーー安寧大王
             |       |
             |----ー綏靖大王
             |
           神武大王
         |・↑彦八井耳命(兄)
         | (東征)
鵜葦草葺不合命ーー|                          若姫命
         |(意富神社祭神) (阿蘇神社祭神)           |
         |・神八井耳命(弟)ー健磐龍命               |ーーー阿蘇氏
          (阿蘇開拓)     |    (阿蘇神社祭祀者)   |
                     |ーーーーー速瓶玉命ーーーーー彦御子命
                     |    (阿蘇国造の祖)
                    阿蘇津姫命


(5)・2 新天地をめざしていざ出発

 「日向隼人族」系豪族「鵜葦草葺不合命」の子「彦八井耳命」「日向隼人族」の頭)が速吸の瀬戸を乗り切る航海術に長けた海人「天多禰伎命」「多禰隼人」「日向隼人族」)に舟同して、日向の美々津を出発し宇佐津へ着いた。宇佐津から筑紫の岡田津へ移動し瀬戸内海の航海に長けた「阿多隼人族」「安日彦(大日諸)族」に協力を願い外洋船の大舟を調達し、大勢の協力者を従え大船団を組んで、大和を目指して筑紫岡田津を出航したのが「神武東征」の発端である。

 古事記の記載によると宇佐を経て岡田宮(福岡県)で一年、多祁理宮(広島県)で七年、高島宮(岡山県)で八年を過ごした後茅渟海に入り三島江に至る。彼らを運んだのは「阿多隼人族」の海人「安日彦命」「大日諸命」)、妹「三炊屋姫命」、弟「長髄彦命」の三人兄妹弟と海人「大隅隼人族」であり、多祁理宮直近の航海の拠点大三島を経て三島に至る。多祁理宮の地と高島宮の地、三島江の地は共に先住縄文人「鴨族」の入植地でもある。

 日向を出航し宇佐を経て岡田宮に寄港し大三島に至るまでは「阿多隼人族」の海人「安日彦族」が舟運帯同した。大三島から三島江まで「阿多隼人族」「天日方奇日方命」(後に八咫烏の功績で賜った名前)が八咫烏(航海の案内役)の役割を担った。又渟名川(淀川)の河口にある大隅島を拠点にする「大隅隼人族」「椎根津彦命」が吉備国の拠点まで出迎えに行き、高島宮から三島江までの水先案内役を担い、一行は無事三島に入植する事になる。日向を出航して三島に至るまで十六年の年月を費やしている。

  古代舟6縮小_convert_20160810113050
    「神武東征」一行船団のイメージ図

 岡田宮の一年は小舟から大舟への乗り換えや船団の整備、食料、水、櫂子などの調達、準備や特に古代舟は潮流や季節風の力を借りなければ航海は難しいため潮待ち、風待ちに費やしたであろう。

 多祁理宮高島宮で七~八年費やしているのはなぜだろう。多祁理宮高島宮の造営地は「鴨族」の入植地であり食料の調達には誠に好都合であった。多祁理宮直近の大三島の拠点は船が着岸できる浜があり、水補給できる湧き水があり、舟を造る巨木がある数少ない島であるが、稲作には不向きであったため多祁理宮の地に頼らざるを得なかった。

 高島宮直近の拠点港は吉備の児島湾の河口にあえう小さな島で陸から全てのものを調達せざるを得ないために、食料や物資を調達するために「鴨族」の住む陸地に宮を造営した。

 縄文時代後期に入植した「鴨族」陸稲耕作を営み、収量は上がらず自給自足が精一杯であったと思われる。「彦八井耳命」は持って来た水稲種籾水稲耕作を試みて、目途が立つのに七~八年を費やしたと見る。

 「彦八井耳命」(後の「神武天皇」)はなぜ水稲種籾を持って東征したのか? 何を以って大王の地位に登り詰めたのか? 「神武東征」は交易による「稲作文化」の伝播の物語であったと考える。

 九州豊国の日向には縄文時代に南方から陸稲耕作が伝わり弥生時代後期には九州北部から水稲耕作が入って来た。しかし南国系陸稲種籾は南国日向では良く育ったが北方系水稲種籾は南国日向では育ちにくかった上、日向の地は旧石器時代から弥生時代初期にかけて五箇所にも亘る火山大噴火に見舞われ、降灰の積み重ねにより形成された火山台地の低湿地であり、十分な水田可耕地を得ることが出来なかった。

 旧石器時代に姶良沖の鹿児島湾カルデラ、一万年前の縄文時代草創期に櫻島、四千年前の縄文時代早期に鬼界島カルデラ、三千年前の縄文時代前期に池田湖カルデラ、二千年前の縄文時代後期に開聞岳が大噴火して、なかでも鬼界島カルデラの大噴火の降灰は九州豊後地方、四国、瀬戸内海、紀伊半島南部まで広範囲に及んでいる。

 この様な理由から日向の海人系豪族「彦八井耳命」は良く育つ耕作地を求めて日本列島(大八島)の東方を目指して開拓に乗出し、水稲種籾を最大の交易品として、「水稲耕作文化」の伝播を計ったのではないかと考えるに至った。

 最初の立ち寄り先の多祁理宮で試験耕作を繰り返すも、耕作条件が今一で、さらに東方の吉備国に立ち寄り試験耕作をするも河川の氾濫や塩害などに遭い思う様にはいかなかった。しかし児島湾での塩田開拓は条件的に勝れうまくいき、「鴨族」にも製法を伝授し、交易品の一つに育て上げた。

 さらに東方に舟を進め三島の地に辿り着いた。この地には在来弥生人の「陶族」とその兄弟の「溝咋族」と「三島鴨族」が居住していた。「溝咋族」の祖先は前八~九世紀頃弥生時代早期に摂津の茨木市を流れる安威川中流左岸の中津付近、牟礼遺跡や溝咋神社が鎮座する地域に降臨、居住した。「溝咋族」は原土を採取、粉砕、水簸し陶土をつくる技術や舟運交通の運河や環濠、河川の洪水を防ぐ疎水や堰、水田への取水溝などの導水施設をつくり、多方面に水を分配する水繰りの技術を持ち合わせ、「鴨族」の農耕技術、摂津地方の水利条件、水稲種籾が出会って日本列島(大八島)の最初の水稲耕作に成功し、「稲作文化」の革命を起した。高槻市の「安満遺跡」は日本列島最古の大規模水田遺跡である。また茨木市の「牟礼遺跡」は舟運による道として運河に護岸杭を打って造成した最古の遺跡である。

 三島鴨神社縮小1_convert_20160813124200 溝咋神社B縮小1_convert_20160813124840
  祖神「積葉八重事代主命」を祀る三島鴨神社と祖神「溝咋耳命」を祀る溝咋神社

 溝咋神社縁起A縮小1_convert_20160813125358 安満遺跡D縮小1_convert_20160814171851
  溝咋族は水田に水を引いた神である事を示す神社縁起と日本最古の大規模水田遺構である安満遺跡

 水稲耕作に成功した「彦八井耳命」は三島の地に十数年滞在することになるが、「溝咋族」、「三島鴨族」を吸収一体化し、三島を饒(ゆたか)な土地に育て、三島の大豪族として君臨し「登美饒速日命」と称せられた。登美は豊耳(豊国の長)の意である。


      

category: (5)大和国の成立は「神武東征」から始まる

thread: 歴史 - janre: 学問・文化・芸術

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